去る10月1日、埼玉県の小学校教員が提起した埼玉教員超勤訴訟をめぐる一審判決が、さいたま地裁で出された。
結果は原告敗訴。
給特法における超勤(限定)4項目以外の超勤労働に対する時間外割増賃金の支払という主位的請求と、法定労働時間を超えて労働を強いられかつ時間外割増賃金の支払も受けられなかったことによる経済的精神的損害に対する賠償請求という予備的請求。
このいずれも、裁判所は認めなかった。
判決当日に判決文を簡単に読み、Twitterで以下のツリーのようにツイート。
その後もいくつか気付いた点をツイート・リツイートした。
加筆も加えこちらにも残しておきたい。
とっちらかってるけどご容赦を。
埼玉教員超勤訴訟、判決文をざざっと読んで、法律素人が感じたこと。
— 伊藤拓也(全学労連) (@it_zgrr) 2021年10月1日
◯判決を通してその基盤となっているのは、教員の業務について、自主的自律的判断に基づく業務と校長の指揮命令に基づく業務の「渾然一体」論。しかし労働訴訟においてこれは、司法の怠慢・責任放棄ではないか。
https://twitter.com/it_zgrr/status/1443876596687859717
まず、判決を通してその基盤となっているのは、教員の業務について、自主的自律的判断に基づく業務と校長の指揮命令に基づく業務の「渾然一体」論であった。
しかし、労働訴訟において「渾然一体」を振りかざすのは、司法の怠慢・責任放棄ではないか。そこを切り分け判断するのが、裁判所の役割なのではないか。
次に、授業準備や保護者対応等を自主的自律的業務と認定した問題。
仮にその判断を是認するとすれば、保護者対応はもちろん、授業準備と一体不可分である学習指導も含め、すなわちいわゆる「学級経営」全般が、人事評価の対象にはなり得なくなるのではないか。
だって指揮命令に基づく労働ではないのだから。
自主的自律的で法定労働時間規制の枠外に置かれる労働……いや、それはもはや労働ではなく「自発的行為」だ……が、他方で人事評価の対象とされそれで昇給やボーナスを上下されることなど、許されないだろう。
判決と人事評価の問題はそれだけではない。
教員は自主的自律的業務も含めた渾然一体な業務であって、校長はそんな教員の超過勤務を認識することさえ無理だというのだ。
だとすれば、まかり間違ってもそんな校長が教員の人事評価をするなんて無理だろう。 勤務時間さえ把握できない立場が、どうしたら勤務実態・勤務成績を把握・評価できるのか。
この判決を基礎として給特法を温存するのだとすれば、地公法第3節(23条~23条の4)=人事評価を適用除外しなければいけないのではないか。
給特法は時間外割増賃金を規定する労基法37条の教員への適用除外を定めているが、法定労働時間を定める32条は除外していない。
しかしながら判決は渾然一体論を基礎として、事実上、給特法の労基法32条への拡大適用をなしているように読める。給特法が労働時間の定量的管理を前提にしていないことをもって、労基法32条違反の違法性が阻却されるかのようだが、そんな法的根拠はあるのか。
自主的自律的と指揮命令の区分けは現実と大きくかけはなれたものだった。
朝学習・朝自習の開始前のプリント配布について、前日に済ませておけば良い、との認定は噴飯もの。それでは宿題としてやって来てしまう子もいるだろう。というか、あまり良い子じゃなかった私だったら、家でやって来て朝学習朝自習時間は遊び騒ぐだろう。
朝会5分前の児童整列について、職員会議で担当から「そうするのが望ましい」という周知があったと認定しつつ、それは「望ましい」だけだから、5分前に整列させるためにさらにその5分前に引率業務をしたのは勝手にやったこと、という認定もひどい。
そんな風に実際に行った業務の労働時間該当認定についてギチギチに締めに締めた認定をしてもなお、裁判所は対象の11か月中5か月も、法定労働時間の超過があったと認定せざるをえなかった。
しかし、過半数でないことをもって、常態化とはいえない、法違反の認識可能性もない、と判断した。
これは法定労働時間の法制をないがしろにするものであり、労働者保護制度に対する挑戦とも言える。
判決報道では、給特法が現場の実情に合わなくなっているとの趣旨の「付言」が大きく取り上げられた。
しかし、「渾然一体論」をベースに置き、あらゆる行為を労働から切り落とし、さらに残った法定労働時間超過に対しても、校長の認識ないし認識可能性を否定して違法性を否定した司法の悪質な判断は、あの程度の付言で許容されるものではない。
絞りに絞ってもなお月に15時間近くの時間外労働の存在を認めつつも、法定労働時間の超過について免責するのなら、それは法治国家の論理ではない。 法定の1日8時間労働は少しの超過なら許される、なんて判決を書いて恥ずかしくないのか。
併せて、そもそもあの程度の「付言」自体が裁判所の現状認識のなさ、時代遅れを如実に表している。
90年代に横浜超勤裁判を闘った赤田圭亮さんのレポートを見た。
裁判は94年地裁敗訴。
しかしもう30年近く前のこのとき、すでに神奈川新聞は「“サービス残業”でどうにか成り立っている義務教育の現状を、法廷はなぜ理解しないのか」、日本教育新聞は「教員の過重労働にたいして給特法は間尺に合わなくなっている」と書いたという。
判決は干支二回り以上、周回遅れ。こんなものをいまだに大きく取り上げなければいけない現実を、シビアに見ざるをえない。
判決について「画期的」「前進」「閉ざされた門が開かれた」などとする評価も目にしたが、私には断じてそうは思えない。
もっとも、だから無意味だとかかえって反動を招くとか、一概にそういう風にも思わない。
判決は主文が全てではない。判決理由で述べられたこと、あるいは判決理由であらわになった矛盾や社会的不正義が、この先の法制度を変える闘いの材料にもなりうる。
これは包括的に「画期的」「前進」などと言わなくとも、そうだ。
ただし、闘いなくしてはなんの意味もなさない。
これが前進となるかどうかは、これから次第。
渾然一体論だってある意味アキレス腱?
命令超勤と自発超勤が「渾然一体」であるなら、判決とは逆に外形的には「自発的」なものも実質的には「命令」を背景としたものと評価し、労働と認定する判断もあって良いはずだ。
管理職の管理空間において事業運営上必要と認められる業務を行っていた場合において、命令がなかったから自発的、という認定は労基法の精神に反する。
本来的に、給特法下でなければあり得ない認定なのだから。
とにかく、給特法をめぐる数々の「一石」に連なって新たな切り口を見いだして一石を投じた原告には敬意を表したい。
控訴するとのことで、二審での引き続きの奮闘を応援したい。
同時に、給特法に代表される学校の労働環境の問題改善はこの裁判だけに収斂されるものではなく、もっといえば教員だけの問題に収斂されることもなく、あらゆる主体があらゆるチャンネル・あらゆる形態で取り組まれ前進していくべきものだと思う。
これに連なるものとして、「学校における働き方改革」の名のもと進められる、教員の負担軽減に大義名分とした学校事務職員への業務転嫁=労働強化も位置付けられるはずだ。
そういう観点も強調しておきたい。