事務室の鍾声~学校事務職員の発信実践

伊藤拓也 全国学校事務労働組合連絡会議(全学労連)、学校事務職員労働組合神奈川(がくろう神奈川)・川崎支部で学校事務労働運動に参加 川崎市立学校事務職員 Twitter→@it_zgrr

利き腕の骨折~12日間の経過

今日はお仕事の話はありません。

 

1月29日、某駅の階段で足を踏み外した。

 

いきなり脱線するが、後々ある悪友にそう報告したら「人の道はぎりぎり踏み外さないで済んでたのにな」と言われた。ほっとけ。

 

それはともかく駅の固い階段で足を踏み外し、私は宙を舞った。もっとも舞ったのは一瞬で、あとは落下するのみであったのだが。

「しまった」の後は咄嗟の瞬間のフラッシュであり、あまり覚えていない。

ともかく、階段下方に落下し激しく身体を打ち付け、しかる後に周囲の心配を招かないよう急いで起き上がり目的の方向に歩を進めた。

帰宅。右腕が痛い。

とりあえず家にあった湿布を貼って寝る。痛くて何度も起きる。

 

翌日。まだ痛い。

実は私は足元がおろそかで、よく転ぶ。経験上、JR武蔵小杉駅南武線横須賀線をつなぐ「歩くスロープ」は危ない、とよく知っているくらいには転ぶ。

私はもう何年もあれには乗らず必ず歩くくらいには、転ぶ。

のだが、だいたい翌日はもう痛くない。

今回はさすがに痛すぎる。服に腕を通すのもしんどい。さすがに近所の整形外科に行く。そろそろと服を脱ぐ。肘をつかまれ、あ、痛い。

レントゲン。

骨折だった。

後日きちんと聞いた診断は「右肘橈骨頭骨折」「右肘外側側副靭帯損傷」。

あーあ。

「シーネ」をつけて包帯でぐるぐる固定。そして三角巾で腕吊り。

この時点では、まだ「いてえなあ」くらいだった。

でも、この時から右手でご飯は食べられなくなった。肘が曲がらないから。

私は左手でいろいろできる器用さがないので、以後フォークやスプーンやレンゲで食べることになる。箸は無理。

 

翌日すなわち骨折から3日目の朝。

肘、すごく痛い。手もパンパンになっていた。指を動かしても痛い。病院で「むくむよ」とは聞いていたが、ここまでとは。右手ではほぼ何もできない。

これがだいたい6日目くらいまで続いた。痛みと利き手の不自由さで、食欲もわかない。わいてもおにぎりとかパンとか、なんか張り合いのない食事。野菜を取りづらいので腹具合もよろしくない。こりゃ大変だ、と深刻の念を抱く。

落としかけたものを手で抑えようと反射的に右手を動かして、5分間くらい悶絶したりもした。

 

7日目くらいからようやく、手首の先は動かしても大丈夫なようになってきた。しかし、その間に筋肉が固まったらしく凝りに凝る。親指と人差し指の延長線の交差点当たり、ガチガチ。これはいまも。

あと、固定部の痛みも薄れてきた代わりに、その周辺の筋肉が攣るようになる。これはこれで痛い。

 

10日目。職場へ。仕事で使うパソコンはノートパソコン。キーボードは片手打ち。マウスではなくタッチパッドを使う。タッチパッドは苦手でなかったのが幸い。とはいえ仕事の進行は遅い。だけど、そうかこういう風にしか動けない人だっているんだ、と思い大いに示唆を受ける。

 

11日目。午前中病院へ。

この時点では肘の痛みがほとんどなくなっていたので、「固定取れないかなぁ」と思っていた。

が、診察室で固定が取られると、急に重い痛みが来る。約10日動かなかった筋肉が、なんかいろいろ支えられないのか。

固定は取れず。でも、包帯が弾性包帯になったおかげで、ずいぶん動かせるようになった。

「風呂入るのに包帯取っても良いよ」とも。喜びつつも、包帯って素人でも巻き直せるのかな?とも思い。

午後から仕事。手首の先はずいぶん動かしやすくなった。パソコンのキーボードも打てるように。肘はなるべく動かさず机に乗せたまま、手首の先だけ動かして操作する。

夜、三角巾がいい加減汚くなったので、ハイターで漂白する。もっとも、濡れた布を絞るのは無理。

 

本日12日目。

なんか肘の調子はどんどん良くなっている気がする。

弾性包帯に変わって、適度に動くおかげで適度に負荷がかかりリハビリになるのかな?わからないけど。

夜。なんか包帯が緩んできたので、思い切って外して入浴。病院行った時より痛くない。湯船でマッサージ。ずいぶん動くようになってきた。

さて包帯のまき直し。意外とうまくできた。弾性包帯って偉大ね。

 

このかん、家事については連れ合いにずいぶん世話になっています。

仕事についてもできないことが多く、いろいろな人に頼っています。

当たり前にできることができなくなること、私のこれまでの人生でたぶん初めてのこと。

健康の偉大さを実感した。

 

明日の首都圏は雪らしい。

転んで骨折すると大変。皆さん気を付けて。