義実家の飼い猫が亡くなり、今日はそのお弔いだった。
私自身は10回も会ったことはないし、会っても知らない人である私には警戒心むき出しで物陰に隠れて出てこない猫だったので、正直関係は薄い。
ただ連れ合いにとっては、私と一緒に暮らすことになり実家を出るまでの間、何年も寝床を伴にしてきた家族である。
そういう親族として、私も出席してきた。
冷たくなって、でもいたわられて、花に囲まれて送り出される情景は、関係の薄い身でもくるものがある。
我が家にはまだ若い2匹の猫がいる。長生きしてほしいなと思う。
その上で、思う。
この国ではせめて人間について言えば、こうして送り出す条件を形成できる社会・倫理の発展がありながら、そうして送り出されることが「断ち切られた」命の多いこと。
要因は様々あると思うが、そのうちの多くを恐らく占めていて、かつ社会政策により回避ないし低減できるのが、貧困の問題、憲法論的に言えば生存権の保障だろう。
いまの時代、自分の世代で、なぜ私は労働運動をやるのか。やらない人の方が多い時代にあっては、付いて回る自問自答だと思う。
「労働者は団結して闘わなければ自らを守れない」
「労働者は自身の生活と権利と生存のために労働組合を組織する」
「労働者はすべての労働者の生存権を防衛するために労働組合を組織する」
単に教科書的かもしれない。雇用保証の公務員のくせに、と思われるかもしれない。
ただ、「いずれなくなる仕事」と脅しあげられている(当局以上に脅しているのは日教組だが)学校事務職員の身として、一定のリアルはある。
そしてなにより、当事者であるか否かにかかわらず、労働者の団結を作り出していくこと、その一端でありたいということ、そういうことだと思う。
生き物は誰しもいずれは死ぬ。
ただ、誰しもが尊重されて死んでいく社会というのは、大前提として、豊かな生存が尊重される社会だろうと思う。