共同学校事務室・共同実施が招く、学校事務に対する「他人事化」「無関心化」と学校事務職員への業務転嫁
#共同学校事務室 ・ #共同実施 が招く問題のひとつは、このような、学校内における #学校事務 に対する「他人事化」「無関心化」の拡大・進行だと考える。
— 伊藤拓也(全学労連) (@it_zgrr) 2022年4月17日
本来、学校事務も校務の一部であり、校長の掌理と責任のもと「調和のとれた学校運営」の一環として位置付けられなければいけない。しかし→ https://t.co/XhK882wcE0
共同学校事務室・共同実施が招く問題のひとつは、学校内における学校事務に対する「他人事化」「無関心化」の拡大・進行だと考える。
本来、学校事務も校務の一部であり、校長の掌理と責任のもと「調和のとれた学校運営」の一環として位置付けられなければいけない。
しかし、共同学校事務室により学校事務が学校内で「他人事化」「無関心化」すると、学校事務職員の労働実態や悩みも他人事化する。
他人事だから事務職員が業務過多になっても、無関心だから事務職員が悩み苦しんでいても、管理職も教員たちも気にかけない。責任を感じない。そんな状況が生み出される。
共同学校事務室・共同実施により学校事務が他人事化・無関心化すると、学校事務職員の過重業務も悩み苦しみも共同学校事務室で解決しろ、お鉢を学校に回してくれるな、という意識になる。
「共同学校事務室で事務を効率化し働き方改革に資する」といった謳い文句がこの傾向に拍車をかける。
学校事務のこと・学校事務職員のことは他人事だから・無関心だから、「この仕事を教員がやらなければならないの?事務職員がやるべき」という素朴で粗雑な業務転嫁が進む。
事務職員が現に業務過多でも過労状態であっても学校は知ったことではない、共同学校事務室で支援を。そんな校長だらけになる。
一応付け加えれば、学校事務・学校事務職員に対する他人事・無関心意識はもともと学校現場にはある。上で述べたような業務転嫁や無責任は、共同学校事務室・共同実施があろうがなかろうが起きている。
ただ、共同学校事務室はその傾向をさらに強めるし、免罪符を与えることになる。
(4月17日のツイートをもとに)
学校徴収金事務と学校事務職員~「雑」な発想で増やされる仕事とその先
中教審が学校徴収金事務について、「学校以外が担うべきだけど学校がやらざるを得ない場合は事務職員に」という逃げ道前提のふざけた答申を出してから3年。
文科省が学校徴収金事務について、学校がやらざるを得ない場合をあらかじめ想定して事務職員の職務に明文化したふざけた標準職務通知を出してから2年。
その毒は確実に回っている。
今年度、川崎の学校現場では、事務職員への校務分掌増の打診が相次いだようだ。私の耳にも何件も入ってきているが、当然それは氷山の一角だろう。
そもそもそうした話が何件も入ってくるなど、少し前までは考えられなかった。
徴収金事務をやっていなければ徴収金事務が。
徴収金事務をやっていればさらに別の業務が。
そんな具合。
これなら結局、徴収金事務やってようがやってまいが、結局とにかく事務職員はもっと仕事しろといじめられる構図だということ。
ところで徴収金事務については、3月にこんなツイートをした。
「学年会計は事務がやれ」論が沸いて出る時期。やったことないからあれだけど…
— 伊藤拓也(全学労連) (@it_zgrr) 2022年3月18日
入金があったら誰から何の理由でいくらか。残高はいくらか。
出金する前に、残高が足りるか。
出金したら誰に何のためにいくらか。残高はいくらか。
…学年会計の管理ってそれだけの事でないの?お小遣い帳だよね。
教員の中には気を悪くする方もいるかもしれないが。
そもそも学校徴収金の問題というのは、教員が自身の教育活動の展開において公費を超えて児童生徒に財政負担を求める構図に、教員がどれだけ主体的意識を持っているか、という問題だと思っている。
その点で単なる会計事務だと扱うのは不適切だし、単なる会計事務だから事務職員がやれよ、としてしまうとますますそうした意識を持てなくなる。
教員は、児童生徒から供与され事務職員が徴収管理するカネの、単なる消費者の意識に堕ちてしまう。
今現在、私は職場で心ならずも学校徴収金徴収事務に関与していて、なんなら1年前にあった金融機関システムの改変に際して、そのシステム対応に環境上一番対応できそうな立場であったという不幸から、新システムに応じた補助ファイルから一連の業務プロセスのマニュアル作りまでやったりもした。
のだが、あくまで学校徴収金担当の主任は教員だし実務も教員が担ってね、と考えているし、幸いにして当校の主任である教員はそうしてくれている。
(そのために頑張ってマニュアル作りに精を出したというところも…)
で、上記は「徴収」の話。
徴収した後は各学年の口座に振り分けるのだけど、そのあとの管理・予算立案・執行・決算報告は当然各学年の業務だろですよね、それ以外に何なんだ、という思いだが。
先に挙げたツイートは、その学年会計管理さえ事務職員がやれという話がしきりに出ている話。
そして、各学年会計管理に手を出して悦に入っている事務職員がいるようだ、とも。
さすがにいい加減にしてほしい。
前のツイートの最後で「お小遣い帳」という挑発的な表現を敢えて使ったのは、次のツイートにつながっている。
学年会計をめぐる教員アカウントの嘆きが、春の訪れを告げる声かのように年度末に突如噴出するのって、もしかして都度都度の入出金出納管理をしていなくて、年度末に入金記録や領収書をもとにまとめて出納帳や会計報告を作ろうとしているからなのか?
— 伊藤拓也(全学労連) (@it_zgrr) 2022年3月18日
だとすればそれは、専門性云々の問題ではない。
このツイートに、事務職員の方々から反響をいただいた。
(以下文意を損なわず一部改変)
”そうなんです。それができないなら教員の仕事云々じゃないという話がしたいのですが…“
”「日々の、積み重ね」が、難しいくらいの忙しさ…?”
”この間聞かれたこと。「お金のプロに教えてほしいんですが、帳簿の額が合わないのはどこをどうしたらいいですか?」。それはどこかをどうにかして合わせるものではない。後から合わせようという発想がおかしい。あと、事務職員はお金のプロではない”
”教員は学校事務職員=会計のプロと認識しているようだが、真実は採用後、誰からも仕事を教えてもらえない。教員のように新採指導がいない。そのため、全て独学。もちろん会計の専門知識はない“
私も採用1年を過ぎた頃、当時の校長に「お金のことは事務職員に」的な理由で徴収金事務を投げられそうになったことがあった(断った)。
受ける断るは別にしても「お金のことは事務職員に」なんて発想はそもそも、学校事務職員が置かれている実情を踏まえない、印象論だけの非常に雑な発想なのだ。
そんなことを口走る校長なんて信用ならないし、文科省、教育委員会は無責任極まりない。
雑な発想で仕事を増やされてはたまらない。
雑な発想で増やされた仕事を担ってもなんの意味もない。
そのあとさらに雑な発想でまた新しい仕事を増やされるだけだ。
その先に高みなどない。それは「向上」などではない。
学校事務職員と「出世」の関係
学校事務という仕事の良いところは「上司がいない(※)」ことと「出世がない」ことだ、と渇破したのは誰だったか。
(※)一応いるが、向こうは教員出身なので学校事務の仕事がわからない。
全学労連関係の誰か、というか、学校事務労働運動(学労運動)の創成メンバーのおひとりである酒井雅親さんの書かれた文章にあったように記憶しているのだが、ちょっと探した限りでは見つからなかった。
いずれにしても、こうした感性は学労運動の中軸に位置してきたと思う。
先日たまたま発掘した、2~30年位前の学校事務職員労働組合神奈川の紹介冊子にも、全事研・日教組的な「出世主義」には与さない旨が掲げられていた。
出世主義の否定
それは、「自らの労働条件は自らの手で」という学労運動のスローガンの横展開として、自分の働き方に対する自己決定権を獲得・確立する立場の表明と解釈できる。
「上司がいない」「出世がない」。だから「上」の不条理な命令や不合理な指示やつまらない評価に対して自由でいられる。あるいは、立ち向かっていける。
自分にとって働きやすい学校職場や業務環境、業務プロセスを自分の手で作り出し、さらには、公平・公正で民主的な学校職場づくりを忖度なしに進めていくこともできる。
「否定」というとすぐに後ろ向きにとられる風潮があるが、むしろ逆。
まっさらな自分が自分らしく働いていける推進力になるのが、「出世主義の否定」だと思う。
併せて、学労運動云々とは関係なしにもとより、「出世」のない学校事務職員には「出世」を志向しない人々が集まってきた。
そうした人たちの集まりだからこそ、フラットな助け合い文化が長らく続いてきたのだと思う。
対して、出世主義の正当性を唱える論理は「学校経営への参画」「カリキュラムマネジメントにおける『果たす役割』」「発信力の向上」といった風に聞こえてくる。
そのためには「出世しなきゃ・偉くならなきゃ変えられない」と。
これが世界平和や差別・貧困の根絶、いやそこまでいかなくとも億単位の予算を動かしたり行政機構の方向性そのものを動かすようなことであるなら、まぁわかる。
しかし、それによって果たせたと称する実体が「学校の運営委員会への参加」だとか「学校事務職員の視点から予算配分を提案」だとか「校内での発言力強化」だとか、言ってはなんだが「その程度」のことであれば……言い換えれば「出世」しなければ「その程度」のこともやりたくてもやれないのであれば、それで何が変えられ、自身の働き方をいかに良くできるのか。はなはだ疑問だ。というか、ちゃんちゃらおかしい。
「出世したら校長や職場の教員に話を聞いてもらえるようになった」という当事者エピソードは複数目にしている。それはそれで事実なのだろうが、それをもってその人が「だから学校事務職員は出世しなければ校長や職場の教員に話も聞いてもらえない」と語る姿は、あんまりにもあんまりだ。
自分の仕事や働き方を自分の頭と手で規定・見直しすることさえできていないで、学校経営だカリキュラムマネジメントだと言って「参画」したところで何になるというのだろうか。
— 伊藤拓也(全学労連) (@it_zgrr) 2022年3月15日
せいぜい小間使いの新しいコマにされるのが関の山だろう。
https://twitter.com/it_zgrr/status/1503715422197391360
いやそうじゃない、「出世」は賃金上昇を獲得するためだ、というならそれはそれで理解しなくはない。
しかしその実態は「課長級獲得を」から「担当課長級を」「課長補佐級を」「せめて係長級を」と後退を強いられ、そうこうするうちに本末転倒して「主任級にも一定の役割が必要、それを敷衍して係長級獲得を」といった状況が現れようとしている。
全事研や日教組の「出世主義」は、傍目に見て非論理的かつ卑屈に過ぎて、とにかく見苦しい。
私の勤務先・川崎市の最大組合である川崎市教職員組合(川教組)は聞くところによれば、「川教組に入らないと係長になれない」と宣伝して組合加入を促しているそうだ。
もっとも、長らく川教組組合員であり、年齢バランスからすればとっくに係長になっているべき人が何人も係長昇格できていないので、その宣伝文句は虚言なのだが。
それはともかく、職階として見た場合係長級は県費負担教職員制度においては事務主査であって、これは13年目に誰でも昇格できた級だ。いまやそれを「出世」の象徴として、それを(入らなかった場合の不利益の脅し込みで)ちらつかせて組合加入に結び付けようというのだから、さすが「出世主義」組合は感性が違う。
最後に、若き日の一時期、親友の採用同期と飲むと必ず発して盛り上がっていたセリフ。そんなもんねーよ、という含意のもと。
「学校事務の『出世』ってなんだよ?!( -∀-)」
「外部支援」の分析・消化ができない学校現場:《「片づけから始める働き方改革」から始まる事務室の環境悪化》のその後
おかげさまで、骨折した肘の固定は昨日外れました。
でも、しばらくはリハビリに通わなければいけません。
肘はまだ曲げ伸ばしに支障があります。重い物も持てませんし体を支えるのは怖いです。
さてそれはさておき。
前々回、こんな投稿をした。
要約すれば、「学校片づけアドバイザー」の元教員がある小学校に赴き「コピー機を職員室に入れたい」という要望を叶えるべく見出したスペースにあった視聴覚機器棚を事務室に移動させた、という業界雑誌の記事に対して、《多数の利益のために少数職種に犠牲を強いるあり方が外部の手をもって天真爛漫に遂行され、しかもそれが能天気に「片づけから始める働き方改革」などと銘打たれる》傾向を批判したものだ。
ただこの件ではもうひとつ。
「そもそもなぜ職員室の模様替え程度のことに、アドバイザーを招く必要があったのか」という疑問を抱いた。
数十人の各々様々な経験を有する大人たちがいる職場において、なぜ「模様替え程度のこと」を自前で計画・遂行できなかったのか。私には不思議だった。
もしかするとそれを探ることで、いまの学校現場やそこで働く教職員たちの置かれた状況が見えてくるのではないか。そう思った。
そんな思いがあり、この件で横浜市教育委員会に文書開示請求をしてみた。
今回、その結果が届いたので報告だ。
まず、開示・非開示通知。


残念ながら一番知りたかった、お招きすることになった経緯を示す文書は、存在が確認できないとして手にすることはできなかった。
開示されたのは、招いたうえでのくだんのアドバイザーがまとめたと思しき資料であった。


どうでもいいことだが「プロジェクトチームの名前を付ける」というくだりに、(私は馴染めない)学校文化のにおいを強く感じた。
掲げられている「目標」や「具体的取り組み」は、もちろん必要なことではあるが、わざわざアドバイザーの手が必要な水準とは感じられない。ただの不要物廃棄と模様替えですよね、と。

使ってないシュレッダーをなんで今まで職員室に置いといてたんだよ…。

通路のためにシュレッダーを事務室へ移動。邪魔なものを事務室に押し付けたのは、棚だけではなかったのか。

前に、「事務室の片づけ」として「職員室との連携により適切な配置にする」との記述があったが、どうやらその内容は通路を狭めるシュレッダーや「先生方が使うモノ」を置き、さらに「ちょっとした作業・打ち合わせスペース」を事務室内につくることだったようだ。
事務室を何だと思っているのだろうか。

「教育環境整備代」としての謝礼金を支出できる予算科目が横浜にはあるのか。
興味深い。
開示資料は以上。
冒頭述べた「いまの学校現場やそこで働く教職員たちの置かれた状況が見えてくるのではないか」という点について、確信的な認識を得るには至らなかった。
「整理整頓アドバイス」の中身も、やはり「不要物廃棄と模様替え」でしかなかった。
「教職員の意識を高めるための職員室でのセミナー」の中身が出色だったのかもしれないが、それに関する資料が開示されなかったということは、講師によるレジュメや資料も、セミナー受講側による概要まとめも作成されなかったということだろう。
ことによると、「いまの学校現場やそこで働く教職員たちの置かれた状況」を雄弁に語っているのかもしれない。
学校現場を支援する動きとして、外部の支援の重要性が語られている。しかし、それらの意義や効果を分析し、あるいはそれを消化する体力さえ、もはやないのかもしれない。
普通に考えれば、外部の支援を仰がねばならないような水準でもないし、有意義と言える支援水準でもない。
でも、検査機能なき「働き方改革」のもとでそんなものが通ってしまい、あまつさえ業界雑誌でアピールのタネにされる学校。
これもまた、学校現場の悲惨な実態というべきだろうか。
利き腕の骨折~12日間の経過
今日はお仕事の話はありません。
1月29日、某駅の階段で足を踏み外した。
いきなり脱線するが、後々ある悪友にそう報告したら「人の道はぎりぎり踏み外さないで済んでたのにな」と言われた。ほっとけ。
それはともかく駅の固い階段で足を踏み外し、私は宙を舞った。もっとも舞ったのは一瞬で、あとは落下するのみであったのだが。
「しまった」の後は咄嗟の瞬間のフラッシュであり、あまり覚えていない。
ともかく、階段下方に落下し激しく身体を打ち付け、しかる後に周囲の心配を招かないよう急いで起き上がり目的の方向に歩を進めた。
帰宅。右腕が痛い。
とりあえず家にあった湿布を貼って寝る。痛くて何度も起きる。
翌日。まだ痛い。
実は私は足元がおろそかで、よく転ぶ。経験上、JR武蔵小杉駅の南武線と横須賀線をつなぐ「歩くスロープ」は危ない、とよく知っているくらいには転ぶ。
私はもう何年もあれには乗らず必ず歩くくらいには、転ぶ。
のだが、だいたい翌日はもう痛くない。
今回はさすがに痛すぎる。服に腕を通すのもしんどい。さすがに近所の整形外科に行く。そろそろと服を脱ぐ。肘をつかまれ、あ、痛い。
レントゲン。
骨折だった。
後日きちんと聞いた診断は「右肘橈骨頭骨折」「右肘外側側副靭帯損傷」。
あーあ。
「シーネ」をつけて包帯でぐるぐる固定。そして三角巾で腕吊り。
この時点では、まだ「いてえなあ」くらいだった。
でも、この時から右手でご飯は食べられなくなった。肘が曲がらないから。
私は左手でいろいろできる器用さがないので、以後フォークやスプーンやレンゲで食べることになる。箸は無理。
翌日すなわち骨折から3日目の朝。
肘、すごく痛い。手もパンパンになっていた。指を動かしても痛い。病院で「むくむよ」とは聞いていたが、ここまでとは。右手ではほぼ何もできない。
これがだいたい6日目くらいまで続いた。痛みと利き手の不自由さで、食欲もわかない。わいてもおにぎりとかパンとか、なんか張り合いのない食事。野菜を取りづらいので腹具合もよろしくない。こりゃ大変だ、と深刻の念を抱く。
落としかけたものを手で抑えようと反射的に右手を動かして、5分間くらい悶絶したりもした。
7日目くらいからようやく、手首の先は動かしても大丈夫なようになってきた。しかし、その間に筋肉が固まったらしく凝りに凝る。親指と人差し指の延長線の交差点当たり、ガチガチ。これはいまも。
あと、固定部の痛みも薄れてきた代わりに、その周辺の筋肉が攣るようになる。これはこれで痛い。
10日目。職場へ。仕事で使うパソコンはノートパソコン。キーボードは片手打ち。マウスではなくタッチパッドを使う。タッチパッドは苦手でなかったのが幸い。とはいえ仕事の進行は遅い。だけど、そうかこういう風にしか動けない人だっているんだ、と思い大いに示唆を受ける。
11日目。午前中病院へ。
この時点では肘の痛みがほとんどなくなっていたので、「固定取れないかなぁ」と思っていた。
が、診察室で固定が取られると、急に重い痛みが来る。約10日動かなかった筋肉が、なんかいろいろ支えられないのか。
固定は取れず。でも、包帯が弾性包帯になったおかげで、ずいぶん動かせるようになった。
「風呂入るのに包帯取っても良いよ」とも。喜びつつも、包帯って素人でも巻き直せるのかな?とも思い。
午後から仕事。手首の先はずいぶん動かしやすくなった。パソコンのキーボードも打てるように。肘はなるべく動かさず机に乗せたまま、手首の先だけ動かして操作する。
夜、三角巾がいい加減汚くなったので、ハイターで漂白する。もっとも、濡れた布を絞るのは無理。
本日12日目。
なんか肘の調子はどんどん良くなっている気がする。
弾性包帯に変わって、適度に動くおかげで適度に負荷がかかりリハビリになるのかな?わからないけど。
夜。なんか包帯が緩んできたので、思い切って外して入浴。病院行った時より痛くない。湯船でマッサージ。ずいぶん動くようになってきた。
さて包帯のまき直し。意外とうまくできた。弾性包帯って偉大ね。
このかん、家事については連れ合いにずいぶん世話になっています。
仕事についてもできないことが多く、いろいろな人に頼っています。
当たり前にできることができなくなること、私のこれまでの人生でたぶん初めてのこと。
健康の偉大さを実感した。
明日の首都圏は雪らしい。
転んで骨折すると大変。皆さん気を付けて。
「片づけから始める働き方改革」から始まる事務室の環境悪化
少し前のことになるが、ある業界雑誌で「片づけから始める働き方改革」という記事を目にした。
「学校片づけアドバイザー」として活動する元教員が、ある小学校の校長の依頼を受けその職員室で、物品配置変更等による環境改善を行ったレポートだ。
その中で、離れた印刷室にあるコピー機を職員室内に置きたいという要望に応えるべく、定位置を見つけるくだりがあった。
しかし職員室を回っても、書類棚、視聴覚機器用棚、防災物品用棚、食器棚、冷蔵庫、ごみ箱などがあり空いてる場所が見つからない。
と、アドバイザーは校庭への出入口付近に若干のスペースを見つける。
ただ、そこにある引き出しをどこに持っていくか。中に入れているものを考えると、離れたところに移動させたくはない引き出し。しかし近辺もすでに棚で埋まっていて場所がない。
で、視聴覚機器が入った棚をどこかに移動し、そこに引き出しを持って行くことになる。
では視聴覚機器用棚は…。
この視聴覚機器用棚は、「事務職員に相談」ののち隣接する事務室に移動された。「まるでパズルのように」。
夏休みに棚や引き出しを移動。印刷室からコピー機を運び込み、うまく収まり「大拍手」。「念願だった職員室でコピーができるようになったのでした」。
このとき、事務職員がどう対応しどう回答しどう感じたか、もちろん私は知らない。
ただ外から見れば。
「職員室にコピー機を入れたい」「でも棚を遠くに動かしたくはない」「冷蔵庫も食器棚もこのまま職員室に欲しい」という多数の願望と、「学校片づけアドバイザー」という様々な意味でフリーな立場が結びついて、
その結果、事務職員の業務に関係のない視聴覚機器用棚が事務室に運び込まれ、言い換えれば職員室の環境改善のために事務室を狭隘化=環境悪化させたことになる。
詳しいことはわからない。この学校の事務室がめっぽう広大で、スペースが余りに余っているということもあるかもしれない。
そうでなくとも、棚ひとつで環境悪化なんて大げさな、と感じる人は多いかもしれない。
それはそれでわからないでもない。
ただこうして、多数の利益のために少数職種に犠牲を強いるあり方が外部の手をもって天真爛漫に遂行され、しかもそれが能天気に「片づけから始める働き方改革」などと銘打たれる。
そんな無神経な学校・業界の在り方は、少数職種を伝統的に苦しめてきた問題だと思う。
とても不愉快な記事だった。

「学校に必要であると思われるような役割」と「理解や共感や感謝を得るための仕事」の近似
働き方改革・教員の負担軽減と称して、教員が担当してきた業務を事務職員が請け負う動きがそこここであるようで、そりゃその方が、他職種からはわかりづらい給与・財務・福利厚生といった本来業務を万端にこなすより職場でのウケも良いだろう。その一方で本来業務をおろそかにしている例も多いようだ。
— 伊藤拓也(全学労連) (@it_zgrr) 2021年12月9日
少し前に、上から始まるこんなツイートをした。
学校事務の仕事、同じ職場内でも他職種からはわかりづらいのだろう。何やってるかわからない、なんで小難しい決裁や書類書きを求めてくるのかよくわからない、と感じてることだろう。管理職もある程度から先は同様。説明してもあまり届いている感じもない。それは仕方ないと思う。
どうせ働くなら、やった仕事に対して理解や共感や感謝を欲しい。せめて同僚にはわかって欲しい。そんな気持ちもよくわかる。
ただだからって、他の職種からもわかりやすくウケの良い仕事に走るのは違うと思う。理解や共感や感謝を欲するのは仕方ないが、理解や共感や感謝のために働くのではない。
理解や共感や感謝を得るために学校事務職員がいるのではない。学校事務職員の本来業務に当たるために学校事務職員がいる。
たとえその業務が職場で理解や共感や感謝を得られないものであったとしても、必要な業務であるからそれがあって、そのために学校事務職員がいるのだ。
先日の対川崎市教委交渉において教職員企画課長より、学校事務職が引き続き学校に必要であると思われるような役割を果たすことの重要性を説く趣旨の発言があった。
前段で組合が、学校事務職を引き続き学校に配置することの必要性に対する当局の認識を質したことが念頭にあったのだろう。
その席では当局の見解が述べられたものとして受け流してしまった。
ただ上記過去ツイートを見返して、そこで述べたある種の倒錯的発想が当局者にも及んでいるという危機感を抱いた。
「学校に必要であると思われるような役割」とは、「理解や共感や感謝を得るための仕事」と著しく近似するものだろう。
そうした働き方を市教委当局が煽る。しかも指示命令するわけでさえなく、自発的行為としてやるべしと煽る。
よろしくない。