事務室の鍾声~学校事務職員の発信実践

伊藤拓也 全国学校事務労働組合連絡会議(全学労連)、学校事務職員労働組合神奈川(がくろう神奈川)・川崎支部で学校事務労働運動に参加 川崎市立学校事務職員 Twitter→@it_zgrr

「学校に必要であると思われるような役割」と「理解や共感や感謝を得るための仕事」の近似

 

少し前に、上から始まるこんなツイートをした。

 

学校事務の仕事、同じ職場内でも他職種からはわかりづらいのだろう。何やってるかわからない、なんで小難しい決裁や書類書きを求めてくるのかよくわからない、と感じてることだろう。管理職もある程度から先は同様。説明してもあまり届いている感じもない。それは仕方ないと思う。

 

どうせ働くなら、やった仕事に対して理解や共感や感謝を欲しい。せめて同僚にはわかって欲しい。そんな気持ちもよくわかる。

ただだからって、他の職種からもわかりやすくウケの良い仕事に走るのは違うと思う。理解や共感や感謝を欲するのは仕方ないが、理解や共感や感謝のために働くのではない。

 

理解や共感や感謝を得るために学校事務職員がいるのではない。学校事務職員の本来業務に当たるために学校事務職員がいる。

たとえその業務が職場で理解や共感や感謝を得られないものであったとしても、必要な業務であるからそれがあって、そのために学校事務職員がいるのだ。

 

先日の対川崎市教委交渉において教職員企画課長より、学校事務職が引き続き学校に必要であると思われるような役割を果たすことの重要性を説く趣旨の発言があった。

前段で組合が、学校事務職を引き続き学校に配置することの必要性に対する当局の認識を質したことが念頭にあったのだろう。

 

その席では当局の見解が述べられたものとして受け流してしまった。

 

ただ上記過去ツイートを見返して、そこで述べたある種の倒錯的発想が当局者にも及んでいるという危機感を抱いた。

 

「学校に必要であると思われるような役割」とは、「理解や共感や感謝を得るための仕事」と著しく近似するものだろう。

そうした働き方を市教委当局が煽る。しかも指示命令するわけでさえなく、自発的行為としてやるべしと煽る。

 

よろしくない。