「学校事務職って理解されない仕事だよね」
というのは、当の学校事務職員ならば誰しもが一度や二度ならず感じたことのある思いでしょう。
……なにも、学校事務職がいかに重要で崇高な役割や業務を担っていて、なのにそのことの価値が世の多くの人たちに知れ渡っていないわぁ残念だわぁ嫌だわぁもっと知らしめなきゃ!なんてそんな話はしていませんし、そんな風にはカケラも思っていません。
全事研(全国公立小中学校事務職員研究会)は毎年「活動の柱」に
学校事務及び事務職員のパブリシティを推進する
というのを掲げていて、横文字大好き全事研さんまた「パブリシティ」なんてイメージしづらい言葉ですが、ざっくり言えば「宣伝」とか「広報」とか「報道」とか「メディア露出」のこと。らしい。
この手の用語の例に漏れず、業界によって用法に差がみられるもののようではあるけれど、ま、「多くの人たちに好意的に知ってもらうこと」くらいの捉えで、間違いはないはずです。
で、本稿冒頭の発声は別にそういうことを言っているわけではなくて。
一度や二度ならず三度四度、いやわりと毎月、けっこう毎週、ヘタすりゃ毎日、学校事務職員が感じている「理解されない仕事だよね」のその念のモトは、おおむね職場の同僚や上司=教育職の面々との関係においてのこと。
「理解されない」の発端はさまざま。
「理解しない/できない」教育職が悪いとも限らない。少なくとも本稿においては断じてそれを糾弾する意図はない。
怒りはおろかなんなら不満でも悲しさでも愚痴でさえもなく、ただ学校事務職員が、学校の総務経理庶務事務担当者として仕事をしている中で、空気のように絶えずただよう「理解されない」感。
そして、多くの場合単数配置、つまり学校でひとりだけの事務職員として圧倒的多数の教員に相対するという環境がないまぜになった時、人と時を選んで襲い掛かってくることのある孤独感や焦燥感。
もしかしたら教育職が持つ輝かんばかりのパブリシティも、影響してくる?
おそらく。
「理解されない」は程度の差こそあれ、全国津々浦々の学校事務職員の誰しもが、頻繁に感じているものだと想像します。
一方で、孤独感や焦燥感に襲い掛かられる人とそうでない人、あるいは、それに負けない人と屈してしまう人というのは、いるのではないでしょうか。
そこを分けへだつものが何なのかはわかりませんが。
1年ちょっと前に、上の記事を書きました。
同僚の理解や共感や感謝欲しさに、わかりやすくウケの良い仕事ばかりに走ることを戒めた内容です。
今から考えると「わかりやすくウケの良い仕事ばかりに走る」って、まさにパブリシティ推進ですね。
そんな皮肉は置いといて。
孤独感や焦燥感に屈することなく学校事務職員生活を送るにはどうしたらいいでしょう。
私はふたつ、考えられると思います。
ひとつは、孤独感や焦燥感を吹き飛ばす職業的自我を確立すること。
もうひとつは、孤独感や焦燥感を緩和させる同業の仲間を獲得すること。
良いではないですか。理解されなくたって。
それでもあなたが外からは見えない総務経理庶務事務をつつがなくこなすことで、学校は回っているのです。
そのことを自覚し誇りを持つことが、何よりの職業的自我だと考えます。
同業の中には「それでは生き残れない」「子どものため」「教育支援のため」と、職場で何してるんだかわかりませんが大きな物語の主人公役然としてかまびすしい面々もいますが、それこそ他者に己をゆだねる在り方でしかないのです。
それになに、同業者と言ってもそんな人ばかりではありません。
日々の仕事を立脚点に、悩みや怒りや悲しみを吐露し、励まし合い、時に情報交換やQ&Aのやり取りがある。当然ながら誰が上とか下とかない。実は正体もよくわからない。
そんな学校事務コミュニティとでも言うべき関係性がTwitter上にあり、支えあっています。
本当は私たち学労運動こそがその役割を担うべきところ、力及ばずの念も感じ入るところです。
同時に全国の学校事務職の皆様方が示す豊かでしなやかなありようは、希望でもあります。
せっかく就いた仕事ですから、私はこの仕事が良い仕事であり続けてほしいのです。
その時に必要なのは、他人の理解やパブリシティではなくて、誇りと仲間なのです。