事務室の鍾声~学校事務職員の発信実践

伊藤拓也 全国学校事務労働組合連絡会議(全学労連)、学校事務職員労働組合神奈川(がくろう神奈川)・川崎支部で学校事務労働運動に参加 川崎市立学校事務職員 Twitter→@it_zgrr

社会は人格を尊重しなければならない。人格の集合体が社会なのだから。

午後から強い雨が降ってきた。強い台風も来ている。沖縄・九州を中心に、各地災害にならないことを祈る。

 

1日遅れだが2020年9月5日付東京新聞朝刊12版から。

22~23面特報。少年法見直しにより実名報道推知報道)の禁止から起訴後の18~19歳を除外するという、与党プロジェクトチームと法制審議会が打ち出した方針をめぐる記事。

民法改正により成人年齢が18歳に引き下げられることを踏まえると、法律全体の整合性をつけることも関係する。見直しを進める立場は、それを理由としているようだ。ただ、先に民法改正だけやっておいて今ごろそうした議論をしているのはそもそもお粗末ではないか。また整合性を言うなら、飲酒や喫煙の問題も同じく整合性を欠いている。

ただそれはそれとして、そもそも少年か成人かに関わらず実名報道自体の是非・要否がもっと問われるべきではないか。将来の更正機会の確保を言うなら、それは何歳になっても保障されるべきものではないか。一個の人格として、この先も社会にある以上。

もう20年前か、たしか高校生の頃に浅野健一氏の書いた犯罪報道に関する本を読んだ。書名も詳しい内容ももう覚えていないが、氏はその中で、実名報道は本当に必要なのかという指摘を説得力ある論考で展開していたと思う。実名報道が当たり前だと思っていて、でも過剰にプライバシーを暴き立てたり一事を万事とばかりに扱い加害者・被害者双方の人間性を断定する報道のあり方には嫌な気持ちも持っていた田舎の若僧にとって、たいへんな示唆であった。

久し振りに思い起こした。

 

23面、師岡カリーマ氏の「本音のコラム」はたいへん良かった。フランスのシャルリエブド紙が、2015年の襲撃事件の発端となったムハンマドの風刺画を再掲載した件について、その品性と風刺性の欠如を指弾した。その上で、「騒ぐほどの価値はない」という表現で自制的な展開を願っている。

本件をめぐってはフランス・マクロン大統領が「フランスでは冒涜する自由がある」と述べたと報じられている。これには驚いた。表現の自由とは冒涜の自由だったのか。であれば、宗教的に限らずあらゆる人格や人権に対する冒涜も、自由だということになるのか。こういう考え方は、あらゆる差別言動を肯定するものではないか。ヘイトスピーチを行う者たちは、基本的に「表現の自由」を旗印にそれを行っている。

マジョリティが「自由」の名のもとに、マイノリティの大切にしている価値観を一方的に嘲笑したり冒涜したりすることなど、あってはならないはずだ。