映画「AGANAI 地下鉄サリン事件と私」…人間が生き続けることの優しさ?厳しさ?強さ?弱さ?
「神秘体験」みたいなものの経験がない。
UFOを見たことも心霊写真を撮れたことも火の玉を見たこともない。
しかし私が子どもの頃の90年代前半、この手のお話は子どもの間で鉄板であった。
ただ子どもの頃、なんとなしに「自分とはいったいなんなのか」「自分は死んだらどこにいくのだろうか」みたいなことは考えたことがある。
パッとしなかった小学生時代(今もか?)。自己肯定感の低い日々のなかで、なぜ自分は運動神経が良くて話も面白いクラスの人気者のあの同級生ではなくて、どんくさくて弱虫なこの自分の身体の中にいるのだろうかと、まず思った。
次いで私のその感覚は、主に「視界」に依拠して考えるようになった。
なぜ私はこの視界を持っているのか。自分の顔を直接見ることができないことが不思議だったし、同級生が自分と同じように自身の顔を直接見ることができないこと、私の顔を直接みることはできることに、不思議を感じた。
ペットのいなかった我が家において、私にとってもっとも身近な動物であったのは蟻だった。
その蟻の視界と自分の視界の違い、ひいて「中身」の違いとはどういうものなんだろうか、と疑問に思った。
子どもなら誰しも、そんな時代があるのだろうか。
そういえば大人になってから、他の人に聞いたことはない。
私もいつのまにか、そんな不思議や疑問を忘れ去った。
横浜シネマリンで「AGANAI 地下鉄サリン事件と私」を観賞した。
監督のさかはらあつし氏は、地下鉄サリン事件の被害者。
撮影の対象は、オウム真理教の後継団体・Alephの広報部長・荒木浩氏。
奇しくもさかはら氏と荒木氏は、共に京都府丹波地方に縁を持ち、同時期に京都大学で学んだ間柄。
1年の撮影交渉の末、さかはら氏と荒木氏はカメラを伴い、京都への道程を共にする。
映画はさかはら監督の優しさと厳しさ、荒木氏の強さと弱さが、時に交差し時にすれ違いながら進んでいく。
いや。
果たしてさかはら氏は優しいのか、厳しいのか。荒木氏は強いのか、弱いのか。観ていくうちにわからなくなっていく。
優しい/厳しい、強い/弱い、そういう二項対立で捉えること自体が、まさに暗闇への道なのかもしれない。
本心もまた。
さかはら監督の本心も、荒木氏の本心も、もちろんこの映画ひとつでまとまるものではない。
これはフィクションではなくて、あまりに厳しい現実なのだから。
今もなお麻原彰晃氏を「尊師」と呼ぶ荒木氏。
一連の事件を巡り「語るべき人が語っていない」と語る荒木氏。
近親者を思って涙し、被害者の親に向き合って涙する荒木氏。
明確な謝罪の言葉を口にすることはしない荒木氏。
観るものからすれば矛盾だらけで、にっちもさっちもいかなくなって進むことも退くこともできない状況にあるようにも見える。
麻原氏の教えから離れれば楽になれるのに、と思う。
しかしながら、「○○から離れれば楽になれるのに」「○○をすれば解決するのに」と周りは思うのに、当人がどうしても踏み切らない事象は、宗教や、政治や、なにやかにやに限らずいくらでもある。
私は、荒木氏にとっての麻原氏への思いが、社会的に見て特別に異常なものだとは必ずしも思えないところがある。
この映画は、何かの結論に至るものではない。
さかはら監督も荒木氏も、数々の関係者たちも、引き続き生き続けなければならない。
それが人間のさだめだと、訴えかけてくるように思った。
とても良い映画だった。