事務室の鍾声~学校事務職員の発信実践

伊藤拓也 全国学校事務労働組合連絡会議(全学労連)、学校事務職員労働組合神奈川(がくろう神奈川)・川崎支部で学校事務労働運動に参加 川崎市立学校事務職員 Twitter→@it_zgrr

「学校裁量」というポジティブな響きと、それぞれの業務負担

年始に、Twitterフォロワーさんである近隣他市の学校事務職員の方と、川崎餃子を食べつつお話ししました。

その中で感じた事。

 

私たち学校事務職員は政令指定都市を除いて県費負担教職員という立場にあります。

ですので県費=給与・人事・旅費事務については、市区町村が異なっても同じ県であれば基本的に同じ仕組み・様式・事務執行となります。

 

それに対して学校財務事務は市区町村費ですので、予算額も執行ルールも市区町村により異なることになります。これは政令指定都市も含めて、そうです。

 

そんな、市区町村ごとに異なる学校財務事務。

差異を挙げればキリがないですが、ざっくり大きな違いをいえば、「学校裁量の大小」ではないでしょうか。

「学校裁量の大小」の具体もまたさまざまな形があるのですが、ここでは「学校に予算を配当して学校で契約をする」のか「予算を教育委員会事務局にとどめて学校の申請を踏まえて教委事務局で契約をする」のか、というお話にしたいと思います。前者であれば、配当予算の費目間流用の権限も含むものとします。

 

さて。学校運営予算の学校裁量拡大って、学校事務職員の立場からすると痛し痒しです。

 

予算費目間の流用にしても修繕や委託の契約範囲にしても、権限が教委事務局から学校に移れば、事務執行に係る校内調整負担は軽くなると考えられます。

学校のニーズに合った予算編成を行うことができ、学校の都合に合った契約(工事の日程とか範囲とか)を結べれば、そうでない場合に比べて校内調整は容易になるでしょう。

しかし代わりに、契約事務そのものは単純に増えます。


川崎市の場合、粗大ごみの回収は教委事務局が全校から申請を取りまとめて一括で契約をします。

当然ながらそうなると、回収時期は学校の都合では決められません。

それどころか、私が初任の頃は年3回あったと記憶しているのですが、今は年2回に減りました。(数年前に一度、1回しかなかった年も)

粗大ごみを回収まで保管しておくのはそこそこ面倒なものです。

回収日も指定できないので、回収場所への運搬作業の手配に支障をきたすこともあります。

お話をうかがった他市は各校契約と聞いて、それも良いなと思いました。

思いましたが、契約事務の仕事は単純に増えますね。

どちらが良いものか。

 

川崎市には消耗品一括購入という仕組みもあります。

A4紙や画用紙や模造紙やボールペンやほうきやごみ袋やトイレットペーパーや絆創膏や包帯や湿布や経口補水液やグラウンド用白線や…

…について、教委事務局が年度当初に品目ごとに単価契約を締結し、しかるのちに年3回(A4とトイペと白線は4回)学校から申し込みを受け付けてそれに基づき納品されるものです。

代金は後日、学校配当予算から差し引かれます。

これも実は痛し痒しなところがあります。

一括購入該当物品は原則として一括購入でしか買ってはならず、つまり年3回の機会で在庫切れを生じさせないよう申し込まなければなりません。

私はもう歴を積みましたのでだいたいの目測がつきますが、働きはじめの頃は結構これがプレッシャーでした。

(今だって中学に異動したらニーズが違ってやらかす可能性あり)

A4や白線やトレペは場所を取りますので、在庫置き場の確保も必要です。それにあたっては校内調整が必要です。

別に事務職員が私的に使うわけでもない物品たちなのに、この在庫置き場確保に非協力的な管理職&教員も、中にはいるようです。

そんな課題もありますが、でも、自校で契約をするより事務執行として楽できているのは間違いのないところです。

 

フォロワーさんの自治体はむしろ、なんでも学校契約の風潮のようです。

物品ならともかく、工事や委託の契約にあたっては困難なことも多いことが、お話をうかがってよくわかりました。

 

いずれにせよ、「学校裁量の拡大」は印象だけで言えばポジティブに響きますが、実際のところそこには業務増がセットになることは、考え合わせる必要があると感じます。

併せて、そうした動きは学校側の都合以上に教委事務局側の都合による面が大きいことにも留意します。

行政合理化の進行で教委事務局に余裕がなくなり、様々な業務を学校に投げていく動き。

そういう広い行政合理化の問題も見据えつつ、考える必要があるでしょう。

 

みなさんの地区の学校財務はどうですか?

学校事務職員生活と理解・パブリシティ・誇り・仲間

「学校事務職って理解されない仕事だよね」

 

というのは、当の学校事務職員ならば誰しもが一度や二度ならず感じたことのある思いでしょう。

 

……なにも、学校事務職がいかに重要で崇高な役割や業務を担っていて、なのにそのことの価値が世の多くの人たちに知れ渡っていないわぁ残念だわぁ嫌だわぁもっと知らしめなきゃ!なんてそんな話はしていませんし、そんな風にはカケラも思っていません。

 

全事研(全国公立小中学校事務職員研究会)は毎年「活動の柱」に

学校事務及び事務職員のパブリシティを推進する

というのを掲げていて、横文字大好き全事研さんまた「パブリシティ」なんてイメージしづらい言葉ですが、ざっくり言えば「宣伝」とか「広報」とか「報道」とか「メディア露出」のこと。らしい。

この手の用語の例に漏れず、業界によって用法に差がみられるもののようではあるけれど、ま、「多くの人たちに好意的に知ってもらうこと」くらいの捉えで、間違いはないはずです。

 

で、本稿冒頭の発声は別にそういうことを言っているわけではなくて。

一度や二度ならず三度四度、いやわりと毎月、けっこう毎週、ヘタすりゃ毎日、学校事務職員が感じている「理解されない仕事だよね」のその念のモトは、おおむね職場の同僚や上司=教育職の面々との関係においてのこと。

 

「理解されない」の発端はさまざま。

「理解しない/できない」教育職が悪いとも限らない。少なくとも本稿においては断じてそれを糾弾する意図はない。

怒りはおろかなんなら不満でも悲しさでも愚痴でさえもなく、ただ学校事務職員が、学校の総務経理庶務事務担当者として仕事をしている中で、空気のように絶えずただよう「理解されない」感。

そして、多くの場合単数配置、つまり学校でひとりだけの事務職員として圧倒的多数の教員に相対するという環境がないまぜになった時、人と時を選んで襲い掛かってくることのある孤独感や焦燥感。

もしかしたら教育職が持つ輝かんばかりのパブリシティも、影響してくる?

 

おそらく。

「理解されない」は程度の差こそあれ、全国津々浦々の学校事務職員の誰しもが、頻繁に感じているものだと想像します。

一方で、孤独感や焦燥感に襲い掛かられる人とそうでない人、あるいは、それに負けない人と屈してしまう人というのは、いるのではないでしょうか。

そこを分けへだつものが何なのかはわかりませんが。

 

it-zgrr.hatenablog.com

1年ちょっと前に、上の記事を書きました。

同僚の理解や共感や感謝欲しさに、わかりやすくウケの良い仕事ばかりに走ることを戒めた内容です。

 

今から考えると「わかりやすくウケの良い仕事ばかりに走る」って、まさにパブリシティ推進ですね。

そんな皮肉は置いといて。

 

孤独感や焦燥感に屈することなく学校事務職員生活を送るにはどうしたらいいでしょう。

私はふたつ、考えられると思います。

ひとつは、孤独感や焦燥感を吹き飛ばす職業的自我を確立すること。

もうひとつは、孤独感や焦燥感を緩和させる同業の仲間を獲得すること。

 

良いではないですか。理解されなくたって。

それでもあなたが外からは見えない総務経理庶務事務をつつがなくこなすことで、学校は回っているのです。

そのことを自覚し誇りを持つことが、何よりの職業的自我だと考えます。

同業の中には「それでは生き残れない」「子どものため」「教育支援のため」と、職場で何してるんだかわかりませんが大きな物語の主人公役然としてかまびすしい面々もいますが、それこそ他者に己をゆだねる在り方でしかないのです。

それになに、同業者と言ってもそんな人ばかりではありません。

日々の仕事を立脚点に、悩みや怒りや悲しみを吐露し、励まし合い、時に情報交換やQ&Aのやり取りがある。当然ながら誰が上とか下とかない。実は正体もよくわからない。

そんな学校事務コミュニティとでも言うべき関係性がTwitter上にあり、支えあっています。

本当は私たち学労運動こそがその役割を担うべきところ、力及ばずの念も感じ入るところです。

同時に全国の学校事務職の皆様方が示す豊かでしなやかなありようは、希望でもあります。

 

せっかく就いた仕事ですから、私はこの仕事が良い仕事であり続けてほしいのです。

その時に必要なのは、他人の理解やパブリシティではなくて、誇りと仲間なのです。

学校事務職員の仕事~「多品種少量」「定型的業務」そして思考と実践の話

あと3か月もすれば学校を卒業して働き始める人たちがいるのだなぁと、ふと気付きました。

私たち学校事務の世界にも、新人がやってきます。

川崎市は13人の採用試験合格を出しています。このうちどれだけの人数が実際に入職するかはわかりませんが、歓迎の気持ちを表するとともに、労働条件と職の将来を維持向上させるため、引き続き頑張っていきたいと思います。

 

そうした方々がおそらく気になることのひとつ。それは、学校事務の仕事や役割とは何ぞや。

これはなかなかイメージしがたいところだと思います。表に出ることが少なく、人数も少ない。そうしたことから世間的に認知度の高い職業ではありませんから、それは当然です。

さすがの情報社会。書籍上ないしインターネット上において、学校事務職員の仕事について紹介するものは若干ありますが、残念ながらまったくデタラメの域のものも見られるほか、純粋に仕事の実態を描くというよりは筆者が抱く強度な思い入れの教化を目したもの、そして何より地域・学校ごとの差異を顧みない論考が少なくありません。

このうち差異の存在については、公教育が地方公共団体の手によって行われ、また学校教育法のもと学校ごとに校務掌理がなされる原則の中にあっては、ある意味で当然のことです。

その点をあいまいにしたままに、「学校事務とはかくたるもの」を語ることは不正確ですし、まして「かくあるべき」を語ることは不誠実のそしりをまぬかれません。

 

入職を間近にして「関連書籍のひとつでも読んでおいた方がいいだろうか」と思う方もいるかもしれませんが、かえって入職後のギャップのもとになることも危惧します。

ちなみに昨日のTwitterでは学校事務職員アカウントの間で、入職前にやっておいた方がいいこととして「コンビニバイト」が挙がりました。

確かに地区・学校がどこであれ、学校事務職の仕事がマルチタスクであることは間違いのないところです。労働組合活動の先輩は「多品種少量」という言い方をしていました。

 

ところで、学校事務の仕事をめぐっては「定型的業務」という言い方をする人たちがいます。

その最たる存在は日本教職員組合で、日教組事務職員部(南部猛部長=当時=)は2021年に文科省への要請行動において2度にわたり「定型的業務はAIに任せて」「定型的業務はAI等を導入して」と訴えています。そのうえで、「事務職員でなければできない」仕事にシフトしたいのだと。

全事研(全国公立小中学校事務職員研究会)も、定型的業務だけをやっていては生き残れないといった主張を繰り返しています。

 

しかしながら、ある業務を「定型的」と断じるのは正しいことなのでしょうか。

また、「定型的業務」とはすなわちAI導入に適した業務とイコールなのでしょうか。

そもそも学校事務職員が日々直面している業務執行は「定型的」なのでしょうか。

 

それは単に、そう断じるその人自身が、非定型的に対応すべき業務執行を定型的にしかしていないだけ、ということはないでしょうか。

私は、どんな業務にも工夫と改良の余地があって、そのことが、賃労働に過ぎずとも人が仕事をすることの価値だと思います。

日教組や全事研が、学校事務職員の従来からの業務を「定型的業務」と呼び否定的に評価するのは、他ならぬ自身がそれらの業務に対する工夫や改良の歩みをやめてしまっているからではないでしょうか?

 

工夫や改良は頭を使います。思考・発案・構想・了承・実施。各プロセスがあります。

日々の目の前の業務に対して頭を使うことをしない方ややめてしまった方が、彼ら彼女らが希求するいわゆる「企画・立案」業務になったとたん頭を使い始めるのか。使い始められるのか。

はなはだ疑問です。

 

誤解してほしくないのですが、私は定型的にしか業務執行しないことがいけないとは全く思っていません。所詮は賃労働ですから、そういう働き方は全然アリです。

ただ、目の前の仕事を「定型的業務」と軽んじて大層な将来ばかりを追い求める学校事務職員というのは、あまり良いあり方ではないと私は感じます。

それを組織立ってやられてしまうのは、はっきり言って迷惑です。

 

立場上、仕事の意義や楽しさみたいなことを語るのは性に合いませんが、日々の仕事に向いながら小さな気付きをもとに工夫・改良を加え、それが良い結果を生み出せば気分がいいですし、良い結果につながらなければ別の方法を模索する新たな工夫・改良への道が始まります。

そうした取り組みは、自身の健全な職業生活を作り出すとともに思考と実践の活性化という民主主義社会を生きる市民の素養を高めます。

さらにその取り組みの結果として、学校運営を学校事務職員の立場からより良いものにし、より良い公教育の継続につながるのだと思います。

 

「子どもの豊かな学びや育ちのために」

そんな主体の大きなスローガンは、学校事務職員の働き方にはそぐわないのです。

賃金改善は「嵩上げ」ではなく「底上げ」で~行政職給料表構造下での昇任による賃金改善は労働者全体のものとはなり得ない~

様々な事情から、ひとつの事業体の中に複数の労働組合が併存しそして対抗関係にあることは、珍しくありません。

私が所属する学労川崎で言えば、義務制学校事務職員という組織対象が川教組(日教組)と重なっており、組合員の獲得という点においてもそれ以外の様々な課題に対する認識においても、対抗関係になります。

 

とはいえどんな労働組合であっても、その目標に「賃金改善」を掲げないところはおそらくないでしょう。

 

それでは、その一点ではそうした併存組合でも共闘できるのでしょうか。

例えば神奈川県職では、県職労(自治労連)と自治労県職労(自治労)が分裂・併存・対抗関係にありますが、賃金確定交渉にあたってはこの2組合は神教組等と一体で「県労連」を構成して当局に相対しています。横浜市職でも同様の状況があります。

私にしてみればよくわからないありようではありますが、そうした例もあるということです。

 

確かに、基本給や夏冬の特別給の水準を云々する範囲内においては、可能なのかもしれません。

しかし、単に「基本給を上げろ」「一時金を上げろ」という話ならともかく、もっと本質的な賃金改善の考え方に移行すれば、組合間の姿勢の違いは大きくなるのではないでしょうか。

 

最近そのことを強く感じたのは、8月に開催された日教組国学校事務研究集会においてなされた、日教組事務職員部長であった野川孝三氏の講演「事務職員の地位向上・賃金改善・定数拡充の手法、職務との関係・在り方について」の報告を目にしたことでした。

 

川教組事務職員部ニュースに掲載されたその報告によれば野川氏は、

 

○事務職員の給与は行政職給料表に位置づいており、免許制に担保された専門職である教育職の通し号給1職1級制とは異なる。

○行政職給料表はピラミッドが原則なので、上を高く(級を上げる)してすそ野を広げて若手・中堅層も早期に級を上げていくことが重要。

○「責任の度」により給与は決まり、級を上げるためには「事務組織」と上位級者への「職務権限」を付与することが必要。

○共同学校事務室を活用して事務組織を作ること、上位級者に新たな職務権限を付与することが求められる。

 

といったことを講演されたとしています。

行政職給料表のピラミッド構造を前提として、その中で学校事務職員の上位級者の級格付けを「嵩上げ」することで、全体の昇任も早まり賃金改善が図られる、という考え方です。

 

学校事務職が行政職給料表に位置付けられていることも、行政職給料表の構造がそうしたものであることも、上位級には相応の職務付与が伴うことが原則であることも、事実として否定はしません。

しかし私は、この野川理論のもとで学校事務職の賃金改善が進められることは、全体のためにはならないと考えています。

 

そもそも「事務組織でさらなる上位級獲得を」という運動は日教組がずっと続けてきたものですが、現実の成果はほとんど耳にしませんし、当の日教組も上位級獲得どころか、今や別の場面では「事務組織をやらなければ生き残れない」と脅し文句じみた焦りの言葉を吐露するような状況にあります。つまり、破綻した論理なのです。

 

しかしそうしたことより、「嵩上げ」による賃金改善という考え方そのものに対して、労働運動上の理念として大きな疑問を感じています。

 

ひとつめには、上位級に格付けられたり若年・中堅であっても早期に昇任することが、果たして全体に等しくいきわたるのか。行政職給料表のピラミッド構造、そして級と職務の紐づけ、このふたつを是認する限りにおいては、嵩上げの恩恵に浴する一部とそうではない多数への分断が生じる可能性が高いのではないでしょうか。

ふたつめには、労働組合にとって賃金改善は重要な取り組みですが労働条件は賃金だけではありません。「事務組織」や「職務権限」が、過重業務や職場環境の悪化、ハラスメントや上意下達的風土を生み出すことがないか、考えるべきです。そもそも労働組合の側が、当局の労務管理の手段である指揮命令関係の重層化を求めることは妥当なのでしょうか。

みっつめには、この賃金改善理論は臨時的任用職員をはじめとする有期雇用労働者にはまったく当てはまらないということです。臨時的任用職員の賃金は現行制度上では任用の都度に初任給決定により算定されており、ピラミッド構造下の嵩上げもそれによって平がるすそ野にも、かすりもしません。全学労連が文科省資料から分析した調べによれば、全国の学校事務職員のうち常勤(いわゆる「正規雇用」)職員は8割ちょっとであり、2割近くは臨時的任用職員と再任用職員等が占めています。決して無視してはならないだけの人数層を形成しています。

 

特に最後の点は重要です。

このことは単に臨時的任用職員の当事者にとってだけの話ではなく、学校事務職全体、そして労働者全体の賃金の問題につながる事柄だと、考えているからです。

 

社会の労働者全体の賃金・労働条件改善と自身のそれとを、一体で捉えて前進を目指すのがあるべき労働運動の姿ではないでしょうか。

だからこそ、企業別労組であっても産別や地域共闘やナショナルセンターを通して、他の労組と連帯を結びます。日教組だってそれは同じであるはずです。

そして、それにあたって求められるのは「底上げ」ではないでしょうか。

 

個々の企業で賃金構造は異なります。嵩上げが有効な場合もあるのかもしれません。

野川理論は地方公務員法と行政職給料表という枠組みの中で、賃金改善への道を展望しています。

私もこれが、賃金改善の一面として機能する可能性があることは否定しません。

(実態がついてきていないことは先述のとおりですが)

 

しかし、少なくとも労働運動の賃金改善に対する基本姿勢は、「嵩上げ」ではなく「底上げ」であるべきだと考えます。

 

これまでの学労の運動もそうしたものでありましたし、これからもそうあり続けたいと考えます。

「それを誰が実施しようとしているのか」~外見上は同じことであっても、実施主体によって「それ」の意図は変わるし結果も変わる

私が所属する全国学校事務労働組合連絡会議(全学労連)、学校事務職員労働組合神奈川(がくろう神奈川)、同川崎支部(学労川崎)は、学校事務の共同実施・共同学校事務室に対して一貫して、反対する姿勢をとっています。

 

学校事務の共同実施が公に行政施策として位置づいたのは、1998年の中教審答申「今後の地方教育行政の在り方について」からと認識しています。

この答申を受け、各地で学校事務の共同実施導入の動きが広がりました。

さらに2017年には地教行法が改正され、共同実施組織が「共同学校事務室」として法定化されるに及びました。

しかしこの施策は、学校事務職員の各校配置体制を破壊し学校事務職員の集約=学校事務センター化と人員削減、有期・短時間雇用職員への置き換えを促進し、同時に学校運営体制にも深刻な打撃を与えるものに他なりません。

 

一言で言えば「それって人員合理化でしょ」ということです。

(以前、ある小さな町の教育委員会幹部が述べたといいます)

 

私は2010年に川崎市の学校事務職員(小学校配属)となりました。

早い時点で学校事務の共同実施について学び、私もそれが、学校事務職の人員合理化ひいては廃職につながるものだと捉えました。

川崎市の義務制学校とりわけ小学校は川教組(日教組)の組織率が非常に高く、私も新採用時点で加入の誘いを受けたのですが、川教組=日教組は学校事務の共同実施を推進する立場をとっています。

私にしてみれば文字通り「墓穴を掘る」行為にほかなりません。

共同実施に対する姿勢。これが、私が学労に加入した最大の理由でした。

 

川崎市は今に至るも、学校事務の共同実施ないし共同学校事務室は導入されていません。

それに近いものは存在しますが、市教委当局はそれを「研修体制の一環であり学校事務の共同実施ではない」としています。

これは学労川崎が導入に強く反対している影響が大きいと、自負しているところです。

 

さてしかしながら。

全国的に見れば学校事務の共同実施・共同学校事務室は一定の拡大を見せており、あわせてこの15年ほどの間の大量退職・大量採用(私もそのひとりですが)における実体験も相まって、共同実施・共同学校事務室に対して肯定的な考えを持つ人も少なくないことは、よくわかっています。

学校事務職員は多くの場合、学校にひとりだけの配置です。管理職も含めて校内には学校事務の仕事をわかるひとはおらず、また学校事務職員の悩みや気持ちにも充分に寄り添ってもらえない状況は珍しくありません。

そうしたなかにあって特に採用間もないころを中心に、共同実施・共同学校事務室で仕事を教わったし、悩みも聞いてもらえた、あれがあったから今があるし、これから入ってくる新人を同じように支えるためにも共同実施・共同学校事務室は必要だ、と考える人は、少なくないでしょう。

 

私も、「それ」を否定するものではありません。

私の場合は、組合と地区事務研究会でそういった相談や支えをいただいたものですが、仮に「それ」が共同実施・共同学校事務室という場であったとすれば、そのように考えるのは当然だと思います。

 

1校1人の学校事務職員が、学校の枠を超えてお互いに助け合い支えあい教えあうことは、絶対に必要なことです。

そのことは以前にも、このブログで書きました。

it-zgrr.hatenablog.com

「であれば、そうした学校の枠を超えた助け合い支えあい教えあいを制度化した方が、もっとそれが促進されるではないか。それが共同実施・共同学校事務室ではないか」。

そんな声もあるかもしれません。

確かに、私が「絶対に必要だ」と断ずるやりとりが、共同実施・共同学校事務室の場で展開されていることは、事実でしょう。

 

しかし、私は複数の人が関与して生じる現象=社会的現象に対して「それを誰が実施しようとしているのか」という観点から本質をとらえることは、大切なことだと考えます。

 

例えば、ボランティアによる公立公園の清掃活動は、実施者の自由意思に基づく自発性からのものであれば、善意にあふれた素敵なことでしょう。

しかし同じことが、行政主導で実施されるのであれば、それは抑圧的なものであるばかりではなく本来対価が支払われるべき労働に対してそれが支払われないということであり、そのことは消費の減退と雇用の劣化(労働ダンピング)という社会的問題につながります。

そのようにする行政の意図は「カネをかけずに行政サービスを維持する」ことであり、生み出される結果は先に述べたとおりです。

しかし、外見上においては同じなのです。

 

同様のことはどんなことでも言えましょう。

 

学校事務の共同実施・共同学校事務室も同じです。

学校の枠を超えた学校事務職員同士の助け合い支えあい教えあいは、学校事務職員が安心して働いていくための、いわば互助的・連帯的な取り組みです。

しかし、学校事務の共同実施・共同学校事務室は教育委員会当局が実施するものであり、そこには単なる互助・連帯とは異なる意図が入り込みます。

 

実際に人員削減合理化を公然と目的に掲げる自治体もあります。

また昨今では「教員の負担軽減のため」と謳い学校事務職員の担当業務を増やす受け皿とされる例が、多数見られます。

これらの意図は、学校事務職員全体の自由意志や自発性から湧き上がっているものとは大きく異なるものです。

 

もちろん、自発的に「教員の負担軽減のために自分にできることをやっていきたい」という学校事務職員もいるでしょう。

私はその考え方を否定しません。

しかしこれも、実施主体が「自分」ではなく「当局」である時点で、取り組む方向性や程度を自己の自由意志の範囲に収めることはできなくなります。

これもまた、外見上は同じであっても実施主体が変わることで、意図も結果も変わっていくという話につながります。

 

私は学校事務の共同実施・共同学校事務室の導入に強く反対しています。

しかし、すでに導入されている学校事務の共同実施・共同学校事務室の場で行われていることのすべてが、悪いことだとは思っていません。

それでもこの制度の導入に反対するのは、いかに外見上「良いこと」が行われている側面があろうとも、「制度」である以上当局=使用者が労働者を使う上で導入されるものであり、それは最終的には労働者をより安くあるいはより多く働かせる意図ないし結果を目指すものにしかなり得ない、と考えているからです。

 

 

最後に、念のため付言します。

「共同実施・共同学校事務室の制度がないと、他校の新採用職員の支援に行くのにも年休でいかなければならない」といった声もあるやに聞いています。

しかしそれは、当然公務出張で行けるよう校長に申し入れるべきです。

川崎市では昔も今も、自発的な他校支援について公務出張が認められています。

怒る教頭会と怒りの感じられない教職員組合 ~共同実施導入からセンター化&事務職員無配置校激増に至った大分県の事例

学校事務の共同実施について調べている中で、「大分県公立学校教頭会」作成の報告資料に行き当たりました。

http://oita-ktk.com/downroad_files/jimu2022/jimu04.pdf

「令和3年度 全国公立学校教頭会の調査~全国と大分県の比較~の分析」と題されたこの報告では

 

・当然と思われることが大分県はできていません

 

・文字どおり、大分県はワーストワンです

 

・この原因は大分県教育委員会

 

・まさに、「無理が通れば道理が引っこむ」です

 

・全国的には全く評価されていません

 

と、大分県教委によるある施策を厳しく批判する言葉が並びます。

管理職集団である教頭会の報告としては異様とも映り、労使癒着のへたな教職員組合よりよほど痛烈です。

 

問題の施策というのは、大分県教委が義務標準法の定めを下回る、独自の事務職員配置基準を設けていること。

その結果、大量の事務職員無配置校が生み出され、教頭による事務職員兼務という状況がもう10年以上生み出され続けています。

 

義務標準法上の事務職員配置基準では、3学級の学校で3/4人、4学級以上の学校で1人、配置することとなっています。

それに対して大分県の基準は学級数ではなく児童生徒数でみることとし、250名以上の学校にフルタイムの事務職員を配置、80名~249名の学校には非常勤職員を配置、というものです。

 

加えて言えば、事務職員無配置校で新任の教頭が配置される学校については4月の1月間のみ、賃金職員を1名配置する、とされています。

このことは、事務職員無配置校においては教頭がそれを兼ねることを前提とした定めと、みることができます。

http://oita-ktk.com/downroad_files/jimu_06.pdf 

(ちょっと古いですが…「平成30年度 事務職員等配置基準」)

 

大分県公立学校教頭会によれば、学校事務職を兼務している教頭の割合は全国では小中とも1%のところ、大分は小35%・中31%。

県ごとの該当校数では、小で福島10、鹿児島7、山梨6、愛媛5に対し大分83。中で福島7、北海道5、新潟・徳島4に対して大分35だといいます。まさにけた違いのワーストぶりです。

(大分も含めここに挙がった道県は比較的教職員組合の組織率の高いところが目立つのも興味深いところです)

 

こうした状況に教頭が怒るのも当然です。

同時に学校事務職員の立場から見れば、本来配置されるべき事務職員の配置がそれだけネグレクトされているということを意味します。

これは学校事務をひどく軽視するものであり、事務職員にとっても大きな問題です。

 

それにしてもなぜこんなことになったのでしょう。

このような状況に至るには、学校事務の共同実施がその導入路となりました。

 

臼杵市臼杵学校支援センター」のホームページに、その経緯がわかる大分県教委通知の抜粋が掲載されていました。

usukijimu.jimdofree.com

 

大分県では2006年に、学校事務の共同実施が全県的に導入されました。

効率的事務処理と教育支援、そして人材育成・活用を目指したものだといいます。

しかし、その後早々にこれらの目的を達成するうえでの共同実施の限界感が意識され、そして何より財政の有効活用が新たに目された末に、2010年に「学校支援センター」が設置されることとなりました。

これと同時に、共同実施はその役割を終えたものとみなされ、必要な機能を学校支援センターに移して消滅したものと推察されます。

 

学校支援センター設置に伴い、学校事務職員はセンターに引き上げられるとともに、義務標準法を下回る大分県独自の事務職員配置基準が策定されました。

250名未満の学校には非常勤事務職員のみを置き、80名未満の学校には一切の事務職員を配置しない、無配置校における学校事務は教頭が兼ねる、というものです。

この経緯は学校事務の共同実施が、学校事務のセンター化=事務職員定数崩し=事務職員削減合理化=教頭による兼務=いびつな学校運営体制の、露払いとなったことを意味します。

 

効率的事務処理、教育支援、人材育成・活用。

目的として掲げられるこれらの理念を、肯定的に捉える方は少なくないと思います。

私とて、それらを一概に全否定する気はありません。というか学校事務業務について、効率的に処理することによって負担を軽くしたり、必要な知識等を正しく身につけて正確に学校事務職務を遂行できるようになることは、何よりも当の事務職員にとって有益なことであると思いますので、その限りにおいては私も肯定します。

 

ただ。

今もなお共同実施や共同学校事務室を設置する必要性・意義として語られるこれらの理念の先に、教頭会をしてその県の学校運営体制を「ワーストワン」と言わしめ、県教委に対して「無理が通れば道理が引っこむ」と言わしめる状況が作り出されたことは、重く重く捉えるべきでしょう。

 

学校事務の共同実施・共同学校事務室を推進する人たち、組織レベルで言えば日教組や全事研ですが、その方々はこういった問題をどう考えているのでしょう。

日教組あたりは「教職員組合がグリップするから大丈夫」とでも言うのかもしれませんが、大分県日教組の組織率が高いところです。

今年8月にオンラインで開催された日教組国学校事務研究集会では、大分県日田市から発表があったそうです。そこで日田市の状況として、小中合わせて30校中実に22校が事務職員無配置という報告もなされたといいます。にもかかわらず、発表内容そのものは「よりよい就学援助制度をめざして」なる演題。

「よりよい就学援助制度」を目指すことそのものを否定はもちろんしません。

しかし、組合としてまずやるべきは「よりよい事務職員配置体制をめざして」、いやそれよりもっと手前、「法に基づく事務職員配置体制をめざして」でしょう。全国集会でなすべきは、大分県における事務職員配置基準の不当性であり、それがいかにして生み出されたかという教訓を共有することでしょう。

 

これは推測ですが、大分県教組は、少なくとも06年の共同実施導入には、積極的に賛同・推進したのではないでしょうか。

学校支援センター設置に対してどうであったかはわかりませんが、現在のような悲惨が事務職員配置体制=学校運営体制を招いた責任の一端が、確かにあるのではないでしょうか。だから今の事務職員配置基準を、当局の横暴として声高に批判・否定することができないのではないでしょうか。

私などは、過去は取り返せないのだから方針の過ちは過ちとして認めて反省したうえで、改善に取り組むべきだと思いますが。

 

いずれにせよ、他県にある私たちは大分県の経緯を十分に教訓化し、学校事務の共同実施・共同学校事務室導入の動きに相対していかなければいけないと考えます。

 

川崎市教委も、将来の共同実施導入を否定はしていません。

川教組事務職員部は当局以上に共同実施推進の姿勢です。

私は、所属する学労川崎で共同実施反対の論陣を張り、今後も導入させない取り組みを続けていきます。

 

そもそも私が学労に入った最大の理由は、「共同実施はダメだ」ということです。そう簡単に引けません。

 

会計年度任用職員の期末勤勉手当〜「制度だから仕方がない」ではなく、労働条件をめぐる差別に敏感でありたい

地方公務員の賃金確定が、各地で進行しています。

 

それに先立つ各地の人事委員会勧告では、民間企業の賃金実態を踏まえるとして、特別給=期末・勤勉手当を引上げること、引上げは勤勉手当に配分すること、とする内容が多くの自治体で出されました。

 

私の勤務する川崎市も同様であり、そして市当局は賃金確定交渉において同様の提案を終始示してきました。

 

もちろん、特別給引上げ自体は歓迎するものです。

しかしながら勤勉手当=成果給部分への配分は、平等な賃金体系をさらに弱め職員間の賃金格差を拡大させることになります。

折しも、とりわけ今年度に入ってから、物価高が進行しています。消費者物価指数は毎月3%前後上昇、実質賃金は1.5%前後の低下を続けています。

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(毎月勤労統計調査より)

 

こうした物価高による実質賃金の低下というマイナス影響は、全体に等しく及びます。

そうした状況下にもかかわらず貴重な賃上げ原資を成果給部分に配分することは、職員全体の生活向上を目指す労働組合の立場として容認できるものではありません。

 

ただ合わせて、いやそれ以上に問題なのが、勤勉手当引上げだけでは会計年度任用職員が特別給引上げの好影響を一切受けられないことです。

会計年度任用職員は期末手当だけで、勤勉手当は支給されないのです。

 

2020年度にスタートした会計年度任用職員制度。その特別給の扱いははじめから批判の対象でしたが、スタート後の経過はさらにひどいものです。

川崎市に例をとれば、2020・21年度の2度の期末手当引下げによる、特別給計0.2月の引下げは期末手当から引くこととされ、その不利益は「平等に」会計年度任用職員にも及びました。

それでいて、今回の0.1月引上げでは勤勉手当に配分された結果、会計年度任用職員は置き去りにされました。

正規雇用労働者への賃金支給を制度上限定し、その制度を理由にその人たちだけを賃下げしっぱなしの状態に置いているのです。

不当な非正規雇用労働者差別であり到底容認できません。

 

私が所属する学労川崎(学校事務職員労働組合神奈川川崎支部)は川崎市当局との最終団体交渉において、こうした問題を踏まえ、合意には至りませんでした。

しかし残念ながら、自治労川崎市職労や日教組川教組は合意に及び、会計年度任用職員置き去りの賃上げが実現します

 

当たり前ですが、特別給引上げを勤勉手当に配分すべしとした人事委員会も、人勧尊重を言い訳にその通りの内容でしか提案しなかった当局も、合意に及んだ自治労川崎市職労や日教組川教組も、会計年度任用職員が「賃下げしっぱなし」という差別的賃金改定に置かれることは、百も承知です。

そういう結果を生み出すことがわからないほど、物知らぬ人たちではありません。

 

そのうえで。

「差別の意図はない。勤勉手当が出ないのは制度だから仕方ないじゃないか」

そんな声もあるかもしれません。

しかし、「制度に沿った結果だから差別ではない」ということにはなりません。

 

古来、病気や見た目や出自等々を理由にさまざまな差別があります。

その中には国ぐるみの差別もありますが、それらはしばしば、法・制度の裏付けをもつものでした。

それらも丸ごと「差別の意図はない、制度だから仕方ない」とするのでしょうか。

それはあまりに、歴史から得るべき教訓を蔑ろにする発想ではないでしょうか。

 

差別を生み出す制度であれば、その制度を変えること。

制度を変えるまでの間においては、制度の範囲内で最大限差別を埋めること。

何より自身が、差別を認める主体とならないこと。

それが大事だと思うのです。

 

川崎市人事委員会、川崎市当局、川崎市職労や川教組といった川崎市労連加盟組合。

そして同じく、制度を盾に有期雇用労働者差別を公務労働現場で拡大強化した動き。

 

それらを「仕方がなかった」と言わせない運動が必要です。

 

人事委員会についていえば、例えば和歌山県では

“会計年度任用職員については、勤勉手当を支給することができないため、期末手当を引き上げることが適当”

と勧告しました。

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差別を生み出す制度であるところの、会計年度任用職員への勤勉手当不支給という問題には手が届かなくとも、先述した「制度の範囲内で最大限差別を埋めること」の一端を、和歌山県人事委員会はやったわけです。

 

また人事委員会がそこに踏み込まなくとも、賃金確定交渉において労使の侃侃諤諤を経た結果、同様の内容に進んだ自治体があると聞きます。

 

会計年度任用職員の特別給引上げ置き去りは、労働条件をめぐる差別問題だという視点が重要だと考えます。

実は川崎市の場合そもそも、期末手当支給要件=6か月以上の任用を満たす会計年度任用職員学校事務職員は、まずいません。

会計年度任用で学校事務職に任用される場合というのは病気休暇代替だけですが、病気休暇90日を過ぎれば代替者は臨時的任用職員に任用替えになるので。

ですので、学労川崎が会計年度任用職員の特別給問題に取り組むのは、組織対象者の労働条件改善というよりももっと広く職員全体・労働者全体を考えた結果です。もちろん、その「全体」の中に、私たち学校事務職員も含まれます。

 

労働者の労働条件について、労働者間に差別が持ち込まれてはいけません。

そういえば学労運動は、学校における日常的な職種差別的対応と、教特法・人確法による職種分断賃金に対する日教組の受容という条件下で生まれた、と聞きます。

ならばこそ、現代公務職場においてもっとも差別的矛盾が集中する課題に対して、私たちは原点に帰る気持ちももって、取り組みたいと思うのです。