事務室の鍾声~学校事務職員の発信実践

伊藤拓也 全国学校事務労働組合連絡会議(全学労連)、学校事務職員労働組合神奈川(がくろう神奈川)・川崎支部で学校事務労働運動に参加 川崎市立学校事務職員 Twitter→@it_zgrr

五輪スポーツが投げかける価値観とは。発信するメッセージとは。何か。何だ!

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 五輪の闇が想像以上に深かったからだ。現場で1つの演目のストーリーと出演者を固めた後、組織委や都の有力な関係者やJOC(日本オリンピック委員会)サイドから、唐突に有名人などの出演依頼が下りてくる。部内では有力者ごとに「○○案件」とささやかれた。
 男性は「有力者が便宜を図った依頼は絶対。その度、無理やり演目のストーリーをいじって当てはめた」と明かした。

 

東京2020オリンピックが、ついに始まってしまった。

開会式は今夜だが、競技はすでに始まってしまっている。

 

それにしても、開会式当日の朝刊にこうした記事が開催都市の地元地方紙に掲載されたオリンピックというのも、過去に例を見ないのではないだろうか。

告発の内容は生々しく、かつ悲惨である。

 

一方で、意外性はない。

オリンピック・パラリンピックがそういうものだろう、というのは、繰り返された関係者の暴言や不祥事、虚言や空約束を通して、今や一般にも広く知れるところとなった。

もっと言えば、そんなことがなくとも「金権五輪」「特権五輪」というあり方はこれまでも、ずーっとあったもの。

ただ、クローズアップされてこなかっただけだ。

 

さてそんな東京新聞も、同日の紙面では3ページにわたり「紡ぐ 選手の物語 担当記者の視点」と題する特集を設けている。

「運動部の記者が、今の思いや大会報道への意気込みをつづった」

というが、注目選手の写真をカラーで多用し、まごうことなき大会機運醸成のプロパガンダだ。

個々の記者の中には、大会への葛藤も垣間見える。ただこの企画自体は、大会のあり方と選手個々人の「物語」を切断し、「選手に責任はない」「選手のことは応援しよう」というよくあるあれとしか見えようがない。

 

しかし、大会のあり方と選手個々人、あるいは大会において行われるスポーツ競技というものは、本当に別物なのだろうか。

 

私は先日行われた組合定期大会の議案において、以下のようなことを書いた。

オリンピック・パラリンピックが一握りの関係者の利益のための商業イベントである実態が、日々明らかになっている。特権的地位にある者がほしいままに振る舞う様は、国の威信や個人の利益・名誉が絡む優勝劣敗の競技のあり方とも重なる。してみると、オリンピック・パラリンピックを通して発せられるメッセージとは、優勝劣敗の社会というあり方なのではないか。ことは東京2020に限らず、オリンピック・パラリンピックそのもののあり方が問われる。

 

オリンピック・パラリンピックは選手にとっても、個人的利益と名誉が密接に絡み合う。

そうした場に登場するため、選手たちは特権的に感染症ワクチンの接種を享受した。

そして今、何度目かの大規模感染拡大が大きな波となろうとし市民と医療現場を苦境と生死の境に陥れようとしている中、優勝劣敗を体現するオリンピック競技で、順位を競い始めようとしている。

 

これが表すものは、人間の―生命の価値の選別、という価値観なのではないか。

オリンピアンのあり方まで含めたオリンピック・パラリンピックの本質が、そこにあるのではないか。

 

東京2020だけではない。

オリンピック・パラリンピック反対!