オリンピック・パラリンピック期間中の日本は、開催都市東京を中心に全国で、新型コロナウイルス感染症について災害レベルの拡大を生じさせた。
全国の1日当たりの新規感染者数は多いときで全国20,000人超、重症者数2,000人超、死者数50人超。
医療逼迫を引き起こし、救急車は搬送先がなく断らざるを得なくなり、政府はついに「中等症は自宅療養」というとんでもない方針を打ち出した。
「中等症」といっても風邪に毛が生えた程度のものではなく、しばしば重篤な症状を表し一気に重症化・死亡に至ることもある状況と専門家は言う。実際、自宅療養中の死者が相次いだ。
これは1年半に及ぶ自民党・公明党政府のコロナ対策が、完全に機能不全であったことを示している。
そんな状況にあっても、マスメディアは特にオリンピックへの熱狂的報道に奔走した。
オリンピック開催に否定的だった世論も、開会とメダルラッシュとメディアジャックのなかで肯定に転じ、オリ・パラともに終了後の世論調査では「やってよかった」が6割を超えたと言う。
世論の変化とともに祝祭の色を強め、だんまりを決め込んでいたオリンピアンたちは一転、栄華を謳歌した。なかには中止論を批判しつつ。
開会式・閉会式や路上競技に際しては観衆が押し寄せたが、それも容認した。主催はもちろん、マスメディアも世論も。
同じ時期に愛知であった音楽イベントは、主催者の感染対策が不十分との理由で経産省の補助金が不支給になるそうだが、口先だけの「無観客」の一方での密も、負けず劣らず悪質だと思うが。
祭は死者へのはなむけともされる。
しかし、オリンピック・パラリンピックが持つ商業主義と国家主義と利己主義は、世界的な感染症の犠牲者やその終息ないし治療に奔走する良心的な医療従事者・専門家に対しては、敵対的とさえ言うべきだろう。
身内が、オリンピック対応指定病院から転院を強いられた後に亡くなったという話も目にした。
さて。
コロナ対策はもはや崩壊状態だ。保健所が担ってきた濃厚接触者判定がついにパンクし、学校内で感染者が出た場合は学校で調査しろ、そのために日頃から児童生徒同士の接触を把握していろ、というとんでもない話が降ってきた。
自民党は憲法を無視して国会開会を拒否したまま総裁選にかまけ始めた。
公明党はそれに乗っかるばかり。
いまだにコロナワクチンが行き渡らないなか、その実態への責任意識は欠片もなく地方自治体への責任転嫁を口にするばかりのワクチン担当大臣が、いまは総裁選ばかりを気にして仕事そっちのけで所属派閥のボスに日参している。
マスメディアは、狭い狭い自民党という一党の総裁選に熱中している。
これもまた、政局という祝祭。
日頃したり顔で吐いている、「政策論争が大事」なんてすっかり忘れ去り、あるいは「数の論理ではダメ」なんてすっかり忘れ去り、政局報道が花ひらく。
こうしている間にも、感染者は生まれウイルスを求めながら射てない日々が続く。