この数日、グッと寒くなってきた。ただ、私にとってはそれくらいの方がかえって調子がいいような気がする。
寒いんだか暑いんだかはっきりしない気温だと、まず着るものに困る。私は汗かきな体質なので、下手に厚着をすると汗をかいた上で冷えて体に悪いし、ならばと思って薄着でいると想定より寒くてやはり体に悪い、ということがしばしば起きる。季節の変わり目はそれがいけない。
それならしっかり寒い方がいい。
夕飯に鍋や豚汁が美味しい季節がやってきた。
さて、前回に続き中央行動の感想。
討論集会のなかで、リモートで加わってくれた全学労連企画初参加の組合員から「教員の権威をもっと否定した方がいい」という指摘があった。
(厳密には、リモートなので音質にやや難があり「権威」という表現だったか確信は持てないのだが、そう聞こえた)
聞く人が聞けばドキッとする発言かもしれないが、その意味するところはこれに継ぐ発言で明らかになる。
曰く「地域がやるべきことや家庭がやるべきこともなんでも教員がやらされる状況は、教員を権威かのように捉える認識から来ていると思うし、また教員自身の側にもそういう意識がはらまれているからではないか」と。(と、要約すれば言っていたように受け止めている)
まったく賛成するところで、学校や教員を取り巻く状況のひねくれ具合をストレートに指摘する良い発言だったと思う。
進行の関係で集会のなかではそれへの応答を述べられなかったのだが、この組合員の指摘を受けてすぐに思い出したことがある。
いわゆる「学校における働き方改革」に関する中教審部会最終盤。答申の検討段階で変更となったある表現だ。
ここでは1年半にわたる部会の議論を踏まえ、答申(「新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方改革に関する総合的な方策について」)の素案が提示され議論が行われた。
そこにおいて、学校における働き方改革につき文部科学省がいかなる役割を果たしていくべきかを述べるくだりに異議が出され、実際の答申では以下のように表現が変えられてしまった。
素案「学校と社会のバッファ(緩衝)としての機能を十二分に果たすことを求めたい」
答申「学校と社会の連携の起点・つなぎ役としての機能を,前面に立って十二分に果たすことを求めたい」
この際の異議の内容は次のようなものだった。
学校における働き方改革特別部会(第20回) 議事録:文部科学省
佐古秀一・鳴門教育大学理事・副学長
「バッファという言葉を使うと、主に動くのは学校・教育委員会で、その間に立って少し緩衝的な役割をするようなニュアンスを感じます。むしろ文部科学省は、この中にもありますように、働き方改革の一方の主役ですので、主体的・能動的な役割を示す言葉に変えていただきたいと思います」
清原慶子・東京都三鷹市長
「より幅広い国民・市民の皆様に御理解いただくときに、文部科学省と教育委員会と学校が協働して取り組んでいくのだという方向性の方がよくて、バッファというと、よっぽど学校と社会にあつれきがあって、それを何かショックアブソーバーの機能を出さないとだめみたいになってしまうので、私は国民・市民を信じておりますので、是非、教育委員会の主たる責任は明記するとともに、私も何か表現に工夫していただければありがたい」
両者の意見の是非当否への直接の言及は避ける。
ただ私としては、こと「バッファ」から「連携の起点・つなぎ役」に変わったことは、働き方改革に対する文科省の主体性という観点で、大きな変質であり後退であったと受け止めている。
答申において挙げられている具体策の範囲内だけであっても、それに沿って「学校が担う役割」の見直しを進めれば、学校と社会との間に軋轢が生まれる恐れは充分に予見される。
そしてその軋轢は学校をさらに疲弊させるし、それならいっそ軋轢を生みかねない「見直し」なんてはじめからやらないでおこう、という発想になってもなんら不思議はない。
そこにバッファがあれば良いが、残念ながら答申は文科省をその泥臭い役割から逃がした。
そして代わりに文科省に付与された役割は「連携の起点・つなぎ役」なる、なんとも大所高所めいた天の調停役であった。
討論集会で挙げられた指摘は、まさに「学校における働き方改革」で解決が目指された問題意識と重なっている。
しかし、「学校における働き方改革」は答申化にあたり骨抜きと変質が進められた。
結局、「働き方改革」も含め「お上」の手で私たちの労働環境が抜本的に良くなるというのは幻想だということなのだろう。
労働環境の改善は、自らの手でこそ成し遂げられる。
その原点を再確認することにつながる、重要な指摘だったと思う。