事務室の鍾声~学校事務職員の発信実践

伊藤拓也 全国学校事務労働組合連絡会議(全学労連)、学校事務職員労働組合神奈川(がくろう神奈川)・川崎支部で学校事務労働運動に参加 川崎市立学校事務職員 Twitter→@it_zgrr

学校事務職員が「愚痴れる場所」の尊さ

3月末の予算締めと次年度準備からはじまる学校事務職員の繁忙期は、4月を一気に駆け抜けて、だいたいの場合世に言う「大型連休」の合間の平日にも喰い付いたうえで、5月3日~5日の祝日にからむ最低4連休あたりでクラッシュしてひと段落つく。

ところは違えど、大まかにはそういう感じではないでしょうか。

 

私の場合は4月末~5月冒頭に、学校配当予算の費目配分や大口購入物品を確認・決定する「予算委員会」を置くのが通例で。

もちろんそれはそれでひとつの仕事の節目にはなるのだけれど、それが終われば今度はその決定に基づく起案・契約・受入・支出事務が山をなし、それに立ち向かうことになるわけで、現実に一息つくのは5月終わりごろでしょうか。

今は昔と違って様々な職種の職員が学校で働いていて、必ずしも皆が皆4月1日によーいドンで働き始めるわけでもなくて。

人を助ける文明の利器であるはずの庶務事務システムは、それの都合に合わせてかえって人がなす諸手続きの締切を早めもし、あるいはシステム障害でかえって手を煩わせてくれて。

 

なんだか昔よりもくたびれます。

 

さて。なんだか愚痴っぽい言い方をしましたが、今日はそういうお話です。

 

私は労働組合の役員という立場で発信実践を行っています。

これはこれでなかなか難しいもので、労働条件に関する不満をあまりにも愚痴っぽく発信していては「なーんだ労働組合なんてやっぱり役に立たないんじゃん」と誤解されてしまうおそれもあります。

一方で、私が役員であろうがなんだろうが私の不満や愚痴がただちに労働組合の取り組み課題になるわけはありません。労働組合が組合として取り組むということは、組合員の中のある程度以上が課題意識を共有し、獲得目標を明確にして、集団として取り組むという意思決定があって初めて成り立つことです。

労働組合の役割にかんがみて当然の意思決定……例えば労働条件の明らかな切下げや組合員への不当な取り扱い……は、その結成目的に照らして自然的に意思決定が形成されたこととなるでしょう。獲得目標も「撤回」「謝罪」と明確です。

 

しかし不満や愚痴というのは、もう少しあいまいでもう少し広いものです。

「広い」。そう、概念としてもう少し広いわけです。「豊か」と言い換えても良いかもしれません。

 

ただちに何かを形成する段階にはありませんが、他方で広く豊かな可能性がはらまれているとも言えると思うのです。

それで思うのです。

学校事務職員が気おくれやはったりやごまかしを持つことなく、「愚痴」を言える場はどこだろう、と。

 

職種が違うとなかなかわかりあえないことがあって、それは実際の職務が違う以上前提知識・認識が違うのだから当たり前。となるとやはり、学校事務職員同士になるでしょう。

しかし職務上において学校事務職員同士で集まる場、すなわち共同実施・共同学校事務室や事務研究会が、そういう場になっているとは思えません。

職務上集まる以上仕方ないとも言えますが、上位級に位置しその結果ある種「体制の手先」となっている職員もいる場において、職場や制度の不満や愚痴をうかつに口にして、にこやかに受け止めてもらえると思えるでしょうか。

こうした場では、毎回持ち回りで簡単な発表をさせるとか毎回全員1回以上発言させるとかそういうこともあるようですが、物言えば唇寒しの地の空気の反映とも言えましょう。研究大会での質問・意見の低調っぷりも印象的です。

 

職員組合はどうでしょう。残念ながらそちらもそういう場になっているとは言えないようです。

少なくとも川教組(日教組)は「事務の組織化」と称する学校事務職員の階層化を推進しており、そのせいか職務上の職層と組合内の発言力が比例するようです。

「昇級した者が組合でも偉い」と「組合で偉い者が昇級する」のニワタマ構造。組合内に偉いも偉くないも本来ないはずなのですがね。そんな状況なので「執行部がおかしいと思っても、反論されるのが怖くて意見できない」と、何人もの川教組組合員から聞かされています。

 

学校予算が足りないとか、なのに教員が無駄遣いするとか、教育委員会の書類提出締切が早いとか、なのに教員が全然書類出そうとしてこないとか、そうした事柄に校長教頭は全く無関心で丸投げしてきっぱなしとか、それでいて人事評価面談ではそんな管理職から「何やってるかよくわかんない」とか言われてテキトーな評価しかつけられないとか。

 

どんな仕事でもそうなのでしょうが、学校事務職員だって仕事の愚痴のネタは絶えません。

それを安心して吐ける場所。

それは実はとても「広い」「豊か」な場所なのだと思うのです。

なにしろそこがあるから私たちは、自分の本心を捨てないでいられるのです。

愚痴を愚痴として吐く場所さえなければ、諦めとともに自己を大勢に合わせることとなるでしょう。

しかし、安心して愚痴れる場所があることで、自己を曲げないでいられるのです。

 

もちろん、労働組合の役割は愚痴を愚痴として終わらせないことにあります。

しかし、広く豊かな愚痴の泳ぐ海に向けて、上から「解決しよう」と叫んでも届きません。

まずともに泳ぐこと、そうして理解すること、なによりその海の自由を守ること。

そうして、個々の真の内心をそのままに持てる仕事であり続けたいのです。

 

大型連休。Twitterの方でスペース機能を使い多くの方と交流させていただきました。

不義理もしました(ごめんなさい)

でもいろいろな方と交流して、上のようなことを強く強く思ったのでした。